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「東京駅」反対派の論拠のうち、いちばん目立ったのは、

─東京は、ここだけが東京じゃない。

 神田も赤坂も目黒もやっぱり東京じゃないか。というものだった。この主張は一理あるように見えて、じつは大きな隙があった。この時点ではもう大阪には大阪駅があったし、京都には京都駅があったからである。しかも大阪駅は明治7年(1874)開業、京都駅は明治28年(1895)改称だから(それ以前は「七条停車場」だった)、先例はずいぶん前に成立していた。

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 それをなんでいまさら蒸し返すんだ、おかしいじゃないかと言われれば答に窮するのは当然であり、だからこそ結局は言い負かされたわけだけれども、しかしとにかく、くりかえすがこの反対論はぎりぎり開業13日前まで粘りぬいたわけで、べつの言いかたをするならば、大阪や京都ではすんなり決定したものが、東京では揉めた。それほど「東京駅」は違和感があったということなのである。

頼りない地名「東京」

 ここに東京という街のおもしろさがある。その違和感の理由はいろいろ考えられるが、いっとう根本的なのは、そもそも彼らが東京という地名に慣れていなかったことだった。

 ここで言う「彼ら」とは、駅名をきめる局長会議に出席した人ととらえてもいいし、一般市民ととらえてもいい。大阪や京都の人々はちがった。おのが地名になじんでいた。

 ずっと前から存在していたからである。もちろん徳川時代には大阪は表記が「大坂」だったし、京都は「京」「京師」「みやこ」などと称されたが、心理的には連続性がある。むかしとつながる実感がある。

東京停車場/「東京百建築」 国立国会図書館デジタルコレクションより

 だから駅名に採用しても「まあいいか」とわりあい大様になれたのである。いっぽうこちらは、もともと江戸という名前だった。

 東京などという地名はごく最近、そう、東京駅の完成から見ればたかだか50年くらい前にとつぜん世にあらわれたものにすぎず、それも江戸っ子がみずから変えたものではない。維新の元勲といえば聞こえはいいが要するに田舎から来た志士あがりの連中がどさくさまぎれに押しつけたものにすぎない。要するに徳川時代には神田も赤坂も目黒もあった。ただ東京だけがなかったのである。

 それくらい頼りない地名であってみれば、あの「中央停車場」案にぎりぎりまで土俵を割らせることができず、薄氷の勝利を余儀なくされたのも無理はなかった。逆にいえばここで「東京」はようやく市民のものになったわけで、私には、この東京駅開業の日こそが真の東京の生誕の日であるように思われる。こんにちあの駅の駅舎がこんなに小さく見えるのも、ひょっとしたらそのせいかもしれないのだ。

 人間の視野が横長とか、目の前に皇居がとかいう以前に、そもそもその生誕の残像がいまだ消えていないから。赤んぼうの絵が重なるというか何というか。なおロンドンにロンドン駅はなく、ニューヨークにニューヨーク駅はない。

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