「なぜ銀座は一時ベットタウンになったか」「なぜピカチュウは町田出身のクリエイターから生まれたのか」など、日本の首都「東京」には多くの謎がある。
そんな「東京」の23もの「謎」を解き明かしたのが、『家康、江戸を建てる』をはじめ、これまで東京について数々の著書をものし、近現代建築にも造詣の深い門井慶喜氏による『東京の謎』(文藝春秋)である。同書より一部抜粋して、銀座と東京駅の謎について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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第1回 なぜ銀座は一時ベッドタウンになったか
災害復興事業の「銀座煉瓦街」
その街はむんむん動物のにおいがした。猿芝居、犬の踊り、熊や虎の見世物小屋......浅草や両国ではない。銀座の話である。銀座に見世物小屋があったのだ。
とにかく毎晩たいへんな人気だった。明治8年(1875)8月31日付「郵便報知新聞」には、午前1時すぎまで騒がしかったとあり、新橋よりゑびすやの辺が最も人通り繁しげく......うんぬんとある。もしも「ゑびすや」というのが松坂屋の別号をさすとしたら、現在のGINZA SIXだろうか。新橋からだと人の列がそうとう長い。もちろん当時の新聞はしばしば平然と事実を誇張するので割り引いて読まなければならないが、のちに日本最高級の商店街になり繁華街になる銀座の街も、こんな一時期があったことは確かだった。
つまりはそれほど廃(すた)れていたのだ、と言うことができたら話は単純でいいのだが、ややこしいことに、当時の銀座は最高級の住宅街でもあった。その少し前、明治5年(1872)の火事で街そのものが丸焼けになり、政府が新しく、
─銀座煉瓦街。
というものを建てたのである。
災害復興事業である。これにより銀座通りは拡張されて現在とおなじ広さになり(現在の中央通り)、ガス灯が立てられ、その左右には2階建て、煉瓦造、ただし外壁を白く塗られた住宅がずらりと建ちならんだ。
まったく非日本的な光景になったわけだけれども、くりかえすが住宅である。お客が呼べる街ではない。銀座はしょせん商店街や繁華街にはなり得ないと政府に見くびられたのである。
中途半端な立地で無個性な街
ここが銀座のつらいところである。何しろ立地が中途半端だった。商店街なら北に日本橋という徳川期以来の「都心」があるし、繁華街なら南に新橋がある。新橋もやっぱり徳川期以来の花街だから、或る意味、東京でいちばん酒がうまい場所である。
その日本橋と新橋のちょうどまんなかにあって、どっちにもなれない無個性な街。ただ広大なだけの真空地帯。こういう場所が、極端にいえば、
─寝られりゃいい。
という場所になりやすいのは、むかしもいまも変わらない。銀座という街はこうして日本初の衛星都市、日本初のベッドタウンになった。そのくせ東には築地があり、当時は外国人居留地があったから、彼らの目も意識しなければならない。政府がけっこうなお金をかけて建物を煉瓦造にしたのはこのためである。