「なぜ銀座は一時ベットタウンになったか」「なぜピカチュウは町田出身のクリエイターから生まれたのか」など、日本の首都「東京」には多くの謎がある。
そんな「東京」の23もの「謎」を解き明かしたのが、『家康、江戸を建てる』をはじめ、これまで東京について数々の著書をものし、近現代建築にも造詣の深い門井慶喜氏による『東京の謎』(文藝春秋)である。同書より一部抜粋して、ピカチュウが町田で生まれた理由について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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第3回 なぜピカチュウは町田で生まれたのか
神奈川県に食い込んでいる町田市
東京都は東西に長い。その東のどんづまりの猫のひたいに23区がつめこまれているため(離島はここでは考えない)、中西部は、面積的には圧倒的大部分を占めるにもかかわらず「その他大勢」的なあつかいをしばしばされる。
なかでも町田はひどいもので、八王子や立川や三鷹やあきる野と同様、東京都に属することはまちがいないのに、しばしば住民みずからが、「俺たち、神奈川県民だし」などと言うという。むろん冗談または軽い自虐なのだろうが、地図の上で見てみると、たしかにその市域は、町田半島とでも呼びたいほどに南へぐいと張り出している。
神奈川県にくいこんでいる。なるほど領土問題(?)も発生するわけだ。もっとも、そんなことを言いだしたら武蔵国そのものが古代においては中途半端な存在だったわけで、光仁天皇のころ、宝亀2年(771)には奈良の朝廷が、武蔵国を、
─東山道から、東海道へ編入すべし。
という命令を出している。
ここでの「道」は街道ではない。北海道の「道」とおなじ、地域区分名である。だいたいのところ現在のJR中央本線沿線地域から東海道本線沿線地域へ移籍させられたわけで、朝廷からすれば、まあ、
─どっちでもいい。
そんな辺境国の問題にすぎなかったのだろう。なお当時、武蔵国は主都(国府という)が現在の府中にあったから、その文明の度は中西部のほうが高かった。東部は文明の度が低いという以前に、そもそも海の下だったはずである。東京都はむかしは地形的にも、文明的にも西高東低だったのである。
新撰組などの人物を輩出することはなかった町田
江戸時代になると、おなじ中西部でも八王子、日野、内藤新宿(新宿)といったような甲州街道ぞいの街はにわかに精彩を放つようになった。人の往来の多さもそうだけれど、住民たちの心理としても、街道を行けばじかに江戸へ、あるいは江戸城へ、ぶつかる感じが自慢だったのである。