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「遠野版ポケットモンスター」だったなら

 これは作家の妄想にすぎないが、遠野だったらどうだろう。そう、あの柳田国男『遠野物語』の舞台だったら。

 同じ人六角牛(引用者注・山の名前)に入りて白き鹿に逢へり。白鹿は神なりといふ言伝へあれば、もし傷つけて殺すことあたはずば、必ず祟りあるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りてこれを撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。

 

 この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸を取り出し、これに蓬を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなほ動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮らせる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきといふ。

 この引用に見るような昔ばなしの残り香をたっぷり嗅いで育ったら、田尻はゆくゆく、おなじ「ポケットモンスター」を創るにしても、その仕上がりはもうちょっと変わっていただろう。

 川や海はあんまり重視されることなく、山が主要な舞台になり、ポケモンの姿かたちは妖怪寄りになる、または神獣寄りになる。ちょうど右の引用における白い鹿のように。私は、いま私たちの目の前にあるピカチュウ以下のデザインは手塚治虫的画風の最末端と見ているけれど、それよりも水木しげる的画風に近づくのではないか。

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 ひとことで言えば、影の濃い生きもの。当然そんな生きものをそうそう気やすく捕獲や飼育することはできないし、友達どうしでの交換もやりづらい。それはそれで田尻のことだから楽しいゲームに仕立てたことはまちがいないが、それは日本趣味のキャラクターによる日本趣味のゲームになり、いま見る「ポケットモンスター」のような普遍性ある世界にはならなかった。そんなふうに想像するのだが、どうだろうか。

©️IStock.com

 ここでの「普遍性」とは、

─あらゆる国籍、あらゆる年齢の人々に無媒介で受け入れられる性質。

 とでも定義しようか。数多くのポケモンがこんにち世界的な人気を博している秘密の鍵といえるもの。してみると、昭和40年代の田尻少年は、町田という街の無個性さによって、たぶん自分でも知らないうちにその鍵をゲットしていた。そこには東京も神奈川もないかわり、無限の「世界」があったのである。