将軍様の準「おひざもと」。たとえば幕末に、近藤勇、土方歳三、沖田総司といったような新選組の連中がそこから出たのは偶然ではない。彼らが生まれる以前から、これらの街は、そもそもが首都の防衛前線といったような自覚の空気が濃厚だったので、新選組はただその空気に忠実だったにすぎないともいえる。
町田はそれとくらべると、甲州街道にも遠く離れ、江戸とも離れて、一貫して歴史上の重要人物を輩出することをしなかった。ただの農村でありつづけたのである。近代に入っても事情は変わらず、昭和2年(1927)4月に小田急線が開通したことでようやく少しずつ都心への通勤者が住みつきだしたという程度だから自然もふんだんに残っていた。町田にほんとうに開発の手がのびたのは、戦後、昭和30年代からである。
無個性の街だったからこそ
高ヶ坂団地、森野団地、木曽団地、鶴川団地、境川団地......それらの大規模開発のおそらくまっただなか、昭和40年(1965)に、田尻智は生まれた。のちにロールプレイングゲーム「ポケットモンスター」を創り出し、世界的な人気を獲得することになる彼の目には、町田はこのように変化していたのだ。
ザリガニとかクワガタが捕れてた山が、半年とか1年の間に発破でボカーンと崩されて崖のようになって。
あるいは、そういうザリガニを手づかみで捕るような場所もあったんだけど、それが1978年を境に、ほとんど新興住宅の宅地造成が完了する。田んぼも雑木林もみんな住宅地になって、近所の釣り堀がゲームセンターになるっていう。
引用は『田尻智 ポケモンを創った男』(2009、メディアファクトリー)より。イ ンタビュアーは宮昌太朗。もっとも、このとき田尻少年はまだ中学生くらいで、懐旧の情にひたる年ごろではない。新しいゲームセンターができたらできたで、熱心に通いだし、ゲームの世界にのめりこみ、そのあげく仲間たちと「ゲームフリーク」という同人誌を出したのである。
なーんだ同人誌かとあなどるなかれ。そのころ宇都宮に住んでいた、田尻よりも6つ年下のゲーム好きの小学生(私である)でさえその名を知っていて、「いっぺん、読んでみてえなあ」などと友達に言っていたほどの伝説的な存在である。田尻はやがてゲームそのものの開発に手をそめるようになり、数作を世に出したあと、満を持してというような感じで初代「ポケットモンスター」を出したわけだ。正確にはゲームボーイ用に2作同時発売された「ポケットモンスター赤」「ポケットモンスター緑」が初代にあたる。発売は任天堂。
その初代発売から20年あまり。現在はスマホ用「ポケモンGO」の流行もあって、それこそ田尻よりも年上の人々の心までしっかりつかんでしまったけれども、念のため、基本的なルールをおさらいしておこう。