国家存立の第一条件だった「貨幣づくり」
結局こちらが実現のはこびになったので、江戸は東京と改名し、天皇は江戸城(皇居)に住むこととなり、ひとまず遷都が完成した。
この間、わずか半年あまり。ただし造幣寮の計画は、このほんの一時の「大阪時代」において立案され、用地まで決められている。いまさら変更もできないというので、そのまま大阪に建ってしまった。
いやいや変更すればいいじゃないか、少々まわり道になっても一から東京で計画を立てなおすほうが結局は能率的だろうと言うのは事情を知らない後世である。何しろ貨幣づくりの可否というのは、近代史では国家存立の第一条件。欧米諸国に対して、
─俺たちは、ただの田舎侍じゃない。ちゃんと日本を統治できる。
ということを示すためには、論より証拠、大阪だろうが何だろうが即座にやらなければならなかった。造幣寮の創業式は明治4年(1871)2月。たった2年後。よほど急いでいたことがわかるだろう。造幣寮はこうして大判とも小判ともちがう近代的な硬貨を鋳造しはじめたのである。
ベッドタウンになった銀座
余談だが、この大阪における硬貨鋳造は、もちろん外国人の助言のもとにおこなわれた。
まずはデザインを決めるというとき、イギリス人造幣寮首長T・W・キンドルが、「世界では、硬貨には国王の肖像をきざむのが一般的である。君民相親しむ一助になる。日本もそうしたらどうか」と勧めたところ、日本政府の返答は、
─不許可。
その理由は、「天皇の尊顔へ、民衆のきたない手でふれるのは恐れ多し」というものだったという。このあたり、洋の東西における君主のあつかいの差が如実にあらわれていておもしろい。とにかく大阪でこんなふうに工場が本格的に稼働すると、銀座のほうは仕事をなくし、ただ広大なだけの真空地帯になったわけだ。
そのあげく「銀座煉瓦街」なるベッドタウンになった。二階建て、煉瓦造、白い外壁。
その上ふたをあければ入居者はあつまらず、空家だらけ。あんまり街なみが西洋的なため、価格も高いし、日本人には落ち着かなかったのだろう。昼はずいぶん静かだった。夜もおなじだったのではないか。
そうして住宅街というのは、人が住まないと空気がよどむ。たちまち柄が悪くなる。これまた古今を問うことがない。かくして猿芝居、犬の踊り、熊や虎の見世物小屋があらわれて、郵便報知が取材に来た。のちの銀座の上品さ、はなやかさを知る私たちは、しばしば、
─この街の発展は、はじめから約束されていた。
などと言ってしまいがちであるが、それは安直な伝記本とおなじ。誰それは子供のころから英雄でした、立派でしたなどという結果論的な逆算にすぎないのである。