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2021/10/12

source : 週刊文春出版部

genre : エンタメ, スポーツ, 読書

ひと目でわかる森野の才能

 ああ、俺はこの世界で、何かやれそうだな。

 ベースを一周する19歳の手には甘美で曖昧な感触が残った。それが、ただでさえ淡白な性格の森野から執着を奪っていた。

 それからは毎年のように地方テレビ局のアナウンサーから「今年こそレギュラーですね」と訊かれ、新聞にもそう書かれ、自分自身も何となくいつかそうなるのだろうと思っていた。事実、まわりを見渡してもバッティングで自分を凌ぐ選手というのは見当たらなかった。

 森野は長さ約90センチ、重量1キロの木の棒を、まるで柔らかいムチのように使うことができた。わずか0コンマ数秒の出来事であるはずのスイングがゆったりと美しく見える。それはひと目でわかる才能だった。

 時々の監督は、フリーバッティングで森野が飛ばす打球に見惚れた。自然とゲームで使いたくなる。ただ、いざ試合で打席に立たせてみると、あっさり三振して帰ってくることがしばしばだった。実戦になれば、ピッチャーは練習のときのようにはストライクを投げてこないからだ。

 それでもあの日の感触が囁いた。いつか、何となく打てるさ──。そうやって森野から悔しさや切迫感を消し去っていた。

 そのうちに1年が過ぎて、また「来年こそレギュラーですね」と問われる。いつか、いつか、と何となく自分の順番が来るのを待っているうちに10年近くが経っていた。

森野将彦選手 ©文藝春秋

 あの日、「立浪以来の天才」と呼ばれたバッターは、いつしかゲームの終盤にしか求められなくなった。レギュラーである誰かの代わりに打ち、誰かの代わりに守る便利屋になっていた。

「お前は走っとけ」

 落合はそんな森野に、遠くから綻びを射抜くような視線を向けたのだ。

「お前は走っとけ」

 ベンチ裏で、グラウンドで、落合とすれ違うたびにそう言われた。試合前から、アメリカンノックを命じられ、まるで高校生のようにグラウンドを走らされた。

 なんで俺ばっかり……。

 プライドを踏みにじられた森野の胸は、やがて不満でいっぱいになっていった。