これまで難なくできていたプレーが、何らかの原因で行えなくなる運動障害「イップス」は数多くのスポーツ選手を苦しめてきた。日本ハムファイターズで活躍した岩本勉氏も、そんなイップスに悩まされた選手の一人だ。期待の若手として開幕1軍スタート目前のタイミングでイップスを発症した彼は、どのようにして“魔病”を乗り越えたのだろうか。

 ここではノンフィクション作家の澤宮優氏の著書『イップス 魔病を乗り越えたアスリートたち』(角川新書)の一部を抜粋。イップスと真摯に向き合い、奮闘した岩本勉氏の体験談を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

◆◆◆

ADVERTISEMENT

プロ3年目で深刻化

 思い返せば、と岩本は遠くを見つめた。小学生のときからその兆候があったかもしれない。小学校時代は八尾北リトルリーグに所属し、投手で全国制覇もしたが、周囲から言われたことを覚えている。

岩本勉氏 ©文藝春秋

「岩本ちゃんは投げんとわからんもんな」

 力でねじ伏せて完膚なきまでに抑える日と、ストライクが殆ど入らずに自滅する日と、出来栄えが両極端だった。

 中学、高校時代もそうだった。マウンドに立ってみないと調子がわからない。試合前日は寝る前に「明日はいい日でありますように」といつも祈った。その日のプレートに立った心理状態いかんで、コントロールがいいか悪いか左右されることが多かった。気持ちが安定すればいい投球ができる。とくに先頭打者をアウトに取れば、さらに気分が安定し、自分の投球に入っていけた。

 プロでも症状はあったが、2年目までは何とかやれていた。

「ずっと制球難はあったんですよ。ノーコン、ノーコンと言われていたけど、破れかぶれでど真ん中に投げて何とかやれていたんです。何とかサマになる試合もできた。カーブでカウントを取れる強みもあった。でもやがてごまかしが利かなくなった」

 2年目の8月に岩本は初めて1軍に昇格する。先輩投手の何人かに怪我人が出て、登録人数に空きができた。そこに岩本が入ったのである。敗戦処理で投げたが、イップスを意識することなく投げることができた。5試合9回を投げて、自責点は2だから、いい結果と言うべきだろう。ここでの成果を認められて、オフにアメリカ留学に派遣された。