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 松田の本業は機械工業だが、新分野に積極的に取り組んだ。圧搾コルク板の製造に成功し、廃材から断熱材や緩衝材として使えるコルクを製造することに成功し、海軍から大量に受注して、再建に成功した。事業拡大を目指して東京へ進出したが、1923年の関東大震災で売掛金が回収不能となる。かねて親交のあった日窒(にっちつ)コンツェルン(現・チッソ)総帥の野口遵(したがう)に融資してもらい、従業員の半分を解雇して切り抜けた。だが25年12月に火災でコルク工場が全焼し、死者まで出してしまう。これを機に機械工業に原点回帰することにし、27年に社名を「東洋工業株式会社」と改めた。

三輪トラック製造で飛躍、戦後はトラック製造に専念

 東洋工業が飛躍するのは三輪トラックを製造するようになってからだ。安価な輸送手段が求められていると感じ、四輪自動車よりも安くできる三輪トラックを選んだのだ。松田は他の自動車メーカーがエンジンなどを海外からの輸入に頼るなか、部品も自社開発することにこだわった。1930年に三輪トラックを試作し、「マツダ号」「MAZDA」と名付け量産した。同年9月には塩田で知られる広島県安芸郡府中町に新工場を建設し本社も移転した。

 1938年、東洋工業は「軍需工業動員法」により陸海軍共同管理工場となった。陸軍から九九式短小銃の生産を請け負い、呉海軍工廠からは爆弾・水雷・信管などの製造命令を受けた。一方、軍事体制下、民生品の生産は制限され、1943年には三輪トラックは生産できなくなった。東洋工業は戦時金融金庫が大株主となり、経営面でも軍の意向が反映されるようになる。44年1月、兵器増産を目的とした軍需会社法による軍需工場の指定を受け、軍の管理下に置かれた。一方で、日窒コンツェルン総帥の野口遵が亡くなり、日窒から出ていた役員が引き上げ、提携関係が終わった。コルク製造部門は、内山コルク工業と共同出資して設立した東洋コルクに分離した。43年末時点で、東洋工業は約8500名の従業員を擁する国内最大級の軍需会社となっていた。

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 1945年8月6日、広島に原爆が投下された。東洋工業の府中工場は爆心地から5キロのところにあったが、大きな損害はなく、敷地内の土地・建物を提供し、広島県庁舎やNHKが避難して業務を遂行するほどだった。しかし、松田は次男を失くし、従業員も119名が死亡、335名が負傷した。

 敗戦から4か月後の1945年12月、東洋工業は三輪トラックの生産を再開した。松田は軍需工場経営者だったが、資本金が3000万円だったので、公職追放を免れた(資本金1億円以上の企業経営者のみが対象となった)。戦後は軍需品の生産を中止し、民生用トラックの製造に専念した。49年から輸出も再開し、50年4月に三輪乗用車、6月に1トン積み小型四輪トラックと、次々と新型車を生産していく。49年のカープ結成時には、もちろん東洋工業も出資した。