野球を愛している、青少年の健全な育成のためになる、沿線住民に娯楽を提供したい……。企業が球団オーナーになるにあたって、そうした建て前を必要としなくなっていた1980年代後半。プロ野球球団を持てば、社名のいい宣伝になるという考えを持つ企業は少なくなかった。

 同時代、オリックスに身売りした阪急ブレーブスが秘密裏に進めていた交渉では、いったいどんな話が飛び交っていたのだろう。評論家・編集者の中川右介氏による『プロ野球「経営」全史 球団オーナー55社の興亡 』(日本実業出版社)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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阪急ブレーブスの小林公平オーナー

 阪急電鉄創業者の小林一三は存命中、「どんなことがあっても、宝塚歌劇とブレーブスは手放すな」と言っていたとされる。明文化されていたわけではないが、これが社訓のひとつとなっていた。1970年代、宝塚歌劇は低迷していたが、『ベルサイユのばら』の大ヒットで蘇った。だがブレーブスは何度優勝しても西宮球場の観客席は埋まらなかった。優勝から遠ざかっている阪神の甲子園球場が満員なのと正反対だった。

阪急ブレーブスでエースとして活躍した山田久志投手 ©文藝春秋

 1988年当時のブレーブスのオーナー・小林公平(1928~2010)は、小林一三の三男で阪急電鉄社長をしていた米三の入婿にあたる。米三には子がなく、兄の松岡辰郎の長女(姪に当たる)喜美を養女としており、公平は喜美と結婚し、小林米三家の養子となったのである。公平は慶應義塾大学経済学部卒業後、三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)を経て阪急電鉄へ入社し、社長、会長となっていた。1988年時点に小林一族の公平がオーナーだったからこそ、阪急はブレーブスを売却できたとも言える。

 小林は阪急電鉄の都市開発部都市開発課の古寺水治郎に「宝塚歌劇とブレーブスという阪急のシンボルは、ともに赤字だ。プロ野球は12球団あるが、歌劇は希少価値がある。お荷物を二つも抱える必要はない」と言っていた。どちらかから撤退するなら野球だと示唆したのだ。

 古寺は、三和銀行頭取・山本信孝が主宰する「三縁会」という若手経営幹部の勉強会のメンバーのひとりだった。三縁会は異業種交流会のひとつで、メンバー企業のひとつが宮古島にゴルフ場を開発する計画があると言うので、会として88年8月に視察に行くことになった。バブルの最盛期だったので、リゾート開発計画が無数にあったのだ。

 その視察旅行に、古寺の他に、オリエント・リース(現・オリックス)の近畿営業本部営業副部長の西名弘明(にしなひろあき)と、三和銀行の事業開発部プロジェクト開発室長・清水美溥(よしひろ)らが参加していた。