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「条件は南海が売ったときだ」秘密裏に進んでいた阪急ブレーブスの身売り…公式発表はなぜ伝説の“10.19”と同日になったのか

『プロ野球「経営」全史 球団オーナー55社の興亡』より #2

2021/10/19
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 宮古島での夕食では、雑談としてそれぞれが抱えている案件を語っていたが、オリエント・リースの西名が「来年から社名変更することになり、短期間に周知させるには広告費がかなりかかる。いっそ、プロ野球の球団を買おうかという話が社内で出ている」と言った。その場では笑い話となったが、阪急の古寺と三和銀行の清水は聞き逃さなかった。しかし、二人ともその場では何も口にしなかった。

 ここから阪急のオリエント・リース、後のオリックスへの譲渡が動き出す。

オリエント・リース

 オリエント・リース株式会社は1964年4月に、日本で最初期のリース会社として設立された。出資したのは、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)と東洋信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)、神戸銀行(現・三井住友銀行)、日本興業銀行(現・みずほ銀行)の五銀行と、日綿実業、日商、岩井産業(三社とも現・双日)の三商社で、資本金は1億円だった。設立時の社員13名のひとりが、宮内義彦(みやうちよしひこ、1935~)だった。

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 宮内は1935年(昭和10)に神戸市で生まれた。父は木材輸入商社に勤務していた。戦争中は山口県玖珂(くが)郡大畠町に疎開したが、戦後に戻り、関西学院中学部・高等部を経て、1958年に関西学院大学商学部を卒業した。その後、ワシントン大学へ留学し、大学院経営学部修士課程を修了してMBAを得ている。60年に日綿実業に入社し、調査部へ配属となった。

 日綿実業は1892年(明治25)に綿花の輸入を目的に、大阪で設立された日本綿花株式会社が始まりで、紡績業が発展するにしたがって取引範囲も世界各国に拡大し、扱うものも綿花だけでなく食品や雑貨にまで拡大していた。宮内は調査部で総合商社化や経営計画の研究をしていたが、63年暮れ、急成長しているリース業を調査するためにアメリカへ派遣された。帰国すると、新会社オリエント・リースの設立メンバーに抜擢されたのである。29歳で、創業メンバー13人のなかの最年少だった。

 オリエント・リースの初代社長は日綿実業社長の福井慶三(1900~87)が兼任していたが、67年から三和銀行出身で副社長だった乾恒雄(1910~98)が社長となり、宮内の主張する自主独立路線へと転換した。それまでは親会社の商社や銀行から顧客を紹介されていたが、それを断わり、自分たちで開拓することにしたのだ。あわせて、親会社からの出向もゼロにした。宮内は顧客の独自開発を担う開発課初代課長に就任した。