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『プロ野球「経営」全史 球団オーナー55社の興亡』より #2

2021/10/19
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新社名周知の手段として球団を持つという案が浮上

 1970年に宮内は取締役となった。順調に業績は伸びていたが、石油ショック、ドル・ショックが日本経済を襲い、設備投資が減少したため、リース業界も危機に瀕した。しかし、オリエント・リースは、国内では商品やサービスを多角化して切り抜け、事務機のリースだけでなく、貸付金やコンピュータのオペレーティングリース、船舶リース、航空機リースにも進出した。70年4月に大阪証券取引所第二部、73年2月には東証、大証、名証市場第一部に株式を上場した。インテリア、自動車、電子計測器などの専門リース会社も設立し、79年には個人向けの信販会社「ファミリー信販(現・オリックス・クレジット)」も設立、海外展開も進めた。

 1980年、宮内は45歳で社長に就任すると、グループ経営の強化を掲げ、部門間、グループ会社間の情報伝達と協力体制を強固にしていった。事業もベンチャーキャピタル、独身寮賃貸事業にまで進出した。またM&Aも積極的に推進して、証券会社や不動産会社を傘下にしていった。

 1988年、オリエント・リースは国際的・多角的な金融サービス業を展開するようになっていたので、グループ各社の結びつきをより一層強めるため、グループCIを導入することにした。CIはバブル経済期に流行したもので、広告代理店などが主導して、大企業に社名変更させ、ロゴやシンボルカラー、シンボルマークを作らせるものだ。社名変更すればそれを告知・周知させるために大宣伝をしなければならず、その広告も扱うので、広告代理店は大儲けしていた。

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 オリエント・リースの新社名は「オリックス」で、1989年4月から新社名になることが決まっていた。それをどう周知させるかを協議したときに、プロ野球の球団を持てば、年間数十億かかかるが、シーズン中は毎日、テレビや新聞が社名を報じてくれるので、抜群の宣伝効果があるという話になったのだ。実際、クラウンライター(1977~78年、現・西武ライオンズ[当時:クラウンライターライオンズ]のスポンサーだった企業)はスポンサーになっただけだが、社名の周知に成功していた。だが球団は12しかなく、新規参入は困難だ。そのため、CI担当者の間の冗談で終わりかけていた。

阪急―三和銀行―オリエント・リース

 球団を持つ目的が、野球を愛しているからとか、青少年の健全な育成のためになるとか、沿線住民に娯楽を提供したいなどの建て前を必要としなくなっていた。プロ野球球団を持てば、社名のいい宣伝になるという身も蓋もない理由で、オリエント・リースは球団を買収したいと公言する。