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赤字会社を解散、新会社として「株式会社広島カープ」を設立

 1951年、松田重次郎は会長に退き、長男・松田恒次(1895~1970)が社長となった。

 恒次が生まれたのは父がまだ大阪で鉄工所を営んでいたときだ。機械好きな子で、大阪市立工業学校に入学し野球部で活躍した。卒業すると陸軍宇治火薬製造所に就職したが、27年に父が経営する東洋コルク工業に入社し、工務係から始めた。

 カープが誕生した1949年、東洋工業は事業拡大期に入っていた。資金的に余裕もあり、二代目の恒次が野球好きだったので、カープへの関わりを深めていった。1962年11月に松田恒次は広島カープの球団社長に就任し、ますます関係を深める。

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 12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議した。19日、「株式会社広島カープ」が発足した。資本金は500万円で、県下の東洋工業・広島電鉄・中国新聞社など13社が出資した。

 厳密には「広島野球倶楽部」が解散しているので、選手は全員自由になり、どの球団に移ってもいいとの解釈も成り立つ。さらに新会社の「株式会社広島カープ」がセ・リーグに加盟するのであれば、加盟料が必要だとの声が両リーグ理事会で上がった。しかし、鈴木龍二セ・リーグ会長は事前に相談されていたので、「会社の名称変更」として選手はカープにそのまま所属し、加盟料は不要ということで押し切った。

 カープの財政は、1958年に市民球場が完成し、収容人数が大幅に増えたので入場料収入が増加し、改善されていく。

©文藝春秋

税制上、やむなく「広島東洋カープ」に改名

 1967年のオフ、12月17日に「広島カープ」が「広島東洋カープ」と改名した。カープは市民球団として親会社を持っていなかったが、東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となったのを受けて、1967年12月に「広島東洋カープ」と改称したのだ。しかし東洋工業が親会社になったわけではなく、体裁上は市民球団の形を維持し、ネーミングライツ的に「東洋」をチーム名としたのである。

 1967年、カープは63年以来の最下位に転落した。それもあってシーズンオフの10月に全役員が松田社長に辞表を提出し、以後は東洋工業のみで球団を運営することが決まった。松田恒次が筆頭株主となり、球団会社は松田家と東洋工業が出資する体制へと移行したのである。現在もマツダはカープの大株主ではあるが、松田家の持ち分のほうが多い。東洋工業はチーム名に社名を入れる意思はなかったのだが、球団へ資金を回す際に税制上の経費として認めてもらうには、社名を入れるよう税務当局から指導された。つまりカープが東洋工業の宣伝媒体になっていると認められなければ、税制上の優遇措置が得られないのである。そこでやむなく、球団名を「広島東洋カープ」とした。