社名は「東洋工業」だが、同社の自動車はブランドの「マツダ」として通用しており、宣伝効果を狙うなら、「広島マツダカープ」とすべきだ。しかしそれだとマツダ(自動車)の球団というイメージとなり、これまで市民球団として親しまれ、県内各企業からの支援も得ていたこととの整合性がとれなくなる。そこで一般名詞でもある「東洋」を冠した「広島東洋カープ」としたのである。
同時に球団の運営会社名も68年シーズンから「広島東洋カープ」となる。松田恒次が球団オーナーとなり、その長男で東洋工業副社長の松田耕平(1922~2002)がオーナー代理に就任した。
1968年は東洋工業にとって、前年に発売されたロータリーエンジン搭載車が脚光を浴び、生産台数でトヨタ、日産についで国内第三位となった飛躍の年だった。しかし、アメリカ・フォードとの提携交渉のさなかの70年に松田恒次が亡くなり、ドル・ショックで提携は白紙となった。松田耕平は拡大路線を取り、新工場を建設、開発にも投資した。だが73年の石油ショックでロータリーエンジンは燃費が悪いとされ、販売台数が落ち込み、一気に経営危機となり、74年には173億円の赤字となった。
そして1975年、東洋工業が苦境にあるなか、広島東洋カープは初優勝した。
松田家による独立採算制に
一方、東洋工業は住友銀行の管理下に置かれるようになり、松田耕平は1977年に社長を退任し、代表権のない取締役会長に退いた。これにより、東洋工業は松田家の同族経営が終わる。経営改革のなかで広島東洋カープをどうするかも協議され、資本関係は維持して株主ではあり続けるが、球団経営には関与しないこととなり、広島東洋カープは松田家による独立採算制となった。
東洋工業の経営危機のとき、カープが最下位争いを続ける弱小球団だったら身売りされていたかもしれない。
東洋工業は1984年に「株式会社マツダ」と社名変更した。80年代半ばから広告会社主導の「CI(コーポレート・アイデンティティ)」という企業イメージ戦略が流行し、多くの大企業が社名変更していたが、東洋工業も時流に乗って、ブランド名として世界的にも定着していた「マツダ」を社名にしたのである。だが、球団名は「広島東洋カープ」のまま、現在に至っている
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