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「羽生に勝たないと一生こんなものしか…」新潟から上京した近藤正和七段は生のナスをかじった

「羽生に勝たないと一生こんなものしか…」新潟から上京した近藤正和七段は生のナスをかじった

近藤正和七段インタビュー #1

2021/10/09

――凄みを感じますね(笑)。5級昇級は翌年の9月でした。

近藤 5月に柏崎に帰っています。上越新幹線が新潟から大宮まで開通し、3時間で通えるようになりましたから。それまでは7時間かかりました。柏崎から上野に行くには、信越本線で長岡に出て上越線の急行「よねやま」、または直江津に出て信越線の特急「あさま」に乗るんです。これが冬になると雪が積もるから、もっとかかるんですよ。

 中1の夏に5級昇級の一番を逃して、父から「勝負の世界は厳しい。交通費もかかるので、入会から1年経っても昇級できなかったときは退会」といい渡されましてね。その直後に昇級できたのは運がよかったと思います。

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ひとり将棋を考えるのは好きだった

――地元だと練習する相手もいないでしょうし、いまと違ってパソコンもないから、できることが限られます。

近藤 そう、だから将棋を指すのは月2回の奨励会のときだけ。あとは師匠から「家にある棋譜を好きなだけ持っていきなさい」といわれました。でも古いものがほとんどで、いちばん新しいのが米長(邦雄永世棋聖)-中原戦でしたから。昭和30年代に指された将棋をよく並べたと思います。

――当時は最新の棋譜を手に入れるといっても新聞か月刊誌でしょう。古い棋譜も貴重なものだったでしょうね。

近藤 そうですね。ほかにひとり将棋を考えるのは好きでしたよ。昔は独自の勉強法で、みんなも個性が強かったんじゃないでしょうか。

――中学生棋士、羽生四段の誕生は1985年12月でした。当時、近藤七段は2級です。どういうことを考えましたか。

近藤 もう三段になった時点で、別格なんですよ。そうはいっても先輩が意地を見せると思っていたので、中学生棋士が出たのはびっくりしました。

「高校には進学せず、東京へ修行に出たい」

――1987年春に県内有数の進学校、県立柏崎高校に入学されます。奨励会は1級でしたし、当時は中卒の奨励会員も多かったはずです。なぜ進学されたんですか。

近藤 中学校3年生の夏に「高校には進学せず、東京へ修行に出たい」といったら、お袋があまりのショックに貧血で倒れちゃったんだ。「お前は羽生さんと違うから、頼むから高校に行ってくれ」と説得されましたよ。

 あの時代の奨励会は平日に行われていて、テストと重なるとすべて赤点になってしまうから、よく再テストを受けさせて貰っていました。大学には行かないと担任の先生には伝えてあったので理解して下さいましたけど、当時は棋士の認知度は低いからクラスの女子に「近藤君、将棋なんかやってないで勉強をもっと頑張らないと!」といわれたものです。