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 昇段を逃してからそのまま飲みにいって、夜中にタクシーで帰ったけど、途中で気持ち悪くなって駅で降ろしてもらったんだよね。3月の寒い時期にうずくまって朝まで倒れちゃって、目が覚めたらゴミ箱の隣で目の前をサラリーマンの人たちが歩いてた。

 2回目の頭ハネで、もうやんなっちゃったっすよ。正直、四段になれないと思ったし、勉強する気もなくなった。そしたら、変な感じの振り飛車がたまたま目に入った。それがゴキゲン中飛車の始まりです。

無意識のうちにテレパシーで感じて、力になったのかもしれない

――もともとは後手番の戦法でスタートしましたよね。どうやって思いついたんでしょう(※2)。

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※2 ゴキゲン中飛車の形自体は近藤が指す前にも実戦例はあるが、現代のような軽快な戦法になったのは近藤が連採してから。

近藤 富沢先生(幹雄八段)がゴキゲン中飛車のような出だしから△4一玉と囲う構えをやっていて、玉を逆に囲って振り飛車にするのはどうかと考えました。いい方は悪いけど、猫だまし。いまさら居飛車でいってもだめだろうし、すぐに奨励会辞めるのもねぇ。師匠(原田泰夫九段)はわかってくれると思ったけど、親に合わせる顔がないから辞めるに辞められなかったです。よく考えたら、あの戦法は投げやりだよね。

――あの時代の振り飛車は角道を止めるタイプが主流ですから、力戦志向だったとは思います。

近藤 当時は必死でやっていたと思うんだけど、よーく考えたら投げやりじゃない(笑)。まあ、それがよかったのかもしれないね。当時は先手がすぐに飛車先を交換してくるから、いきなり大乱戦になるんだ。周りからは三段の将棋に見えなかったでしょう。

――なるほど。「大事に指したい」「勝たないとだめだ」と思うと固くなって、伸び伸びと指せないこともありますが、新しい戦法でいきなり大乱戦になるなら、震える前に思いっきり戦えそうですね。昇段は第19回(1996年前期)三段リーグです。13期目の参加、6年半かけての四段昇段でした。要因は何ですか。

近藤 何でだろう。父の病気なのかな。僕には心配かけさせたくないからって連絡はこなかったけど、無意識のうちにテレパシーで感じて、力になったのかもしれない。

泣いても笑っても最後の1年

――後々ですけど、四段昇段がご両親の命を助けましたね。

近藤 ああ、新潟県中越沖地震ね(発生は2007年、柏崎市は震度6強)。プロになれなかったときのことを考えて、親が僕のために土地を買ってくれていたんだ。そしたら、四段になっちゃったのよ(笑)。僕は東京で生活するから、親が新しい土地に家を建てた。地震でお菓子の工場と生まれ育った実家は全壊したけど、親は新しい家にいたから無事だった。生きていると、色々ありますね。

 昇段する1期前が6勝12敗だったでしょう。年齢制限で最後の1年を前にして負け越したから、覚悟したんだ。先輩を見ていたら、負け越しが続いて退会するパターンだと思うからね。泣いても笑っても最後の1年、棋士になれなかったら親に合わせる顔もない。世界の片隅で生きるというわけにもいかないでしょう。三段リーグに参加していたときは18歳から25歳にかけてだから、気持ちや考えが大人になっていったと思うんです。勝負の世界だから棋士になれないのはしょうがないかもしれないけど、もう少し頑張らないと親や師匠に申し訳ない。そういう気持ちの部分が、どこかで結果につながったのかな。