第100代、憲政史上64人目の内閣総理大臣となった岸田文雄(64)。政治家3世の出自と、生真面目でおっとりした人柄から、自由民主党の名門派閥・宏池会の「プリンス」と呼ばれてきた。だが意外なことに、文雄の祖父や曽祖父、彼らの兄弟らは戦前、故郷・広島を飛び出し「北海道」「台湾」「満州」という新天地で財を成す、果敢なフロンティア精神に富んでいたのだ。
日本領になりたてホヤホヤの台湾へ
岸田家は、安芸国賀茂郡奥屋村(現・広島県東広島市志和町奥屋)で代々「新出屋(あたらしや)」の屋号を持つ農家だった。明治維新とともに生まれた、文雄首相の曽祖父・岸田幾太郎(いくたろう、1867~1908)には商才があったようで、1891年ごろから農機具、種苗、呉服などを開拓地の北海道に卸し、北海道から昆布などの海産物を仕入れて広島などで販売するようになった。
さらなる業容拡大を目指す幾太郎は、1896年2月、妻・スミと生後わずか2カ月の長男を伴い、台湾の玄関口・基隆(キールン)へ移住する。前年の1895年4月に日清戦争が終結し、日清講和条約(下関条約)で台湾(澎湖列島含む)は清から日本に割譲されたばかりの頃だ。台湾総督府が統治を始めてからわずか半年。基隆の港がアジア有数の近代港湾として整備されるのはまだ先の話だった。
原住民による激しい抗日武装運動も続いていた時期の、未開の地と言ってもいい台湾へ率先して移住した幾太郎は、材木と呉服の販売を始める。植民地として今後、港湾・鉄道などのインフラ整備や街づくりが進めば確実に木材の需要は増えるとにらんでいた。また内地から日本人の移住者増加も予想され、なにより台湾人に、「大日本帝国臣民」としての自覚を促すためにも和服着用の習慣拡大が有用と思われていた。幾太郎は28歳で、基隆の中心部に材木店「岸田材木店」と高級呉服商「岸田呉服店」を構える。
基隆で脚光を浴びる旧「岸田呉服店」
「基隆銀座」と呼ばれるほど賑わった繁華街・義重町(現在の中正区信二路、義二路の交差点)に建てられた「岸田呉服店」のレンガ造り2階建ての建築は、築100年以上を経た今も商店として活用されている。屋根やファサードが多少改変されてはいるものの、赤レンガの壁面に白い花崗岩の帯を組み合わせた「辰野式ルネサンス」の華やかな建築は、おおむね明治の姿をとどめている。古写真を見ると、失われた塔屋部に「キ」の文字(きしだ、キールンのキの意)をレタリングした看板を大きく掲げ、「基隆銀座」のランドマーク的存在だったことがうかがい知れる。
だが幾太郎一家は、台湾移住からわずか4年後の1899年に帰国してしまう。商売順調な時期に突然帰国した理由は定かではないが、台湾紙『聯合報』は、「当時、年間死亡者数が数千~1万人超だった風土病、マラリアに感染し、転地療養をしたのではないか」と推測している。その後、幾太郎は日露戦争後の1906年、中国大陸の満州(現・中国東北部)へ移住し、大連に1万5000平方メートルほどの土地を取得するが、1908年に40歳の若さで急逝した。