「幾久屋百貨店」の年商額は三越を抜いた
「幾久屋百貨店」は大連随一の繁華街、浪速町通り(現・天津街)に建設された。亡父・幾太郎がポーツマス条約の翌1906年に取得していた1万5000平方メートルの土地の一部だろう。
鉄筋コンクリート造り地下1階地上3階建て、延床面積5200平方メートルのハイカラな洋風建築は戦前、「三越百貨店」「遼東百貨店」と並ぶ大連3大デパートの一角を占めた。ただ現役の衆議院議員だった正記は1936年に帰国して政治活動に注力。「幾久屋百貨店」の経営は、専務だった正記の弟、岸田正次郎(まさじろう、1897~1979)に託された。正次郎は1939年、「幾久屋百貨店」の年商額が三越を抜き大連のデパート首位(800万円、現在の約32億円)になるまで繁盛させた。
「幾久屋百貨店」は大連に続き、古都・奉天にも支店を出店した。
奉天駅から放射状に伸びる平安通り(現・民主路)を600メートル南下した突き当りのロータリー、平安広場(現・民主広場)に面して、正記は鉄筋コンクリート地上3階建ての建築を建てた。奉天幾久屋については、記録が少なく詳細は不明。ただ、終戦時に、大連に匹敵する15万人超の日本人が居住していた奉天では、「幾久屋百貨店」のほかにも、「満蒙毛織百貨店」「七福屋百貨店」「百貨店ユニオン」「三中井百貨店」などの日系デパートが活況を呈していた。
旧「幾久屋百貨店」は今も大連を代表するデパート
正記が建てた大連「幾久屋百貨店」の建物は、2021年現在も残されている。
1945年の敗戦で岸田家は大連から日本へ引き揚げるが、堅牢な「幾久屋百貨店」の建築は、中華民国政府の関東公署公安局が接収し「大連裕華商場」という名で商業施設の役割を継続。1949年に中華人民共和国が建国されると国営デパートとなり、「関東百貨公司」「旅大百貨公司」「大連天津街百貨大楼」「大連百貨大楼」「天百大楼」とたびたび名前を変える。1981年に4~5階部分を増築。
1987年には天津街を挟んで南側に別館を増築し、延床面積は1万平方メートル超に。2007年には7階まで増築し、民間資本の「新天百」としてリニューアル。その後、大連市の重要保護建築に指定され、2020年、幾久屋とは無関係のレトロ風デザインに外観がリニューアルされた。だが建物の基礎や筐体は依然として、1933年築の「幾久屋百貨店」をベースにしている。中国の歴史建築修復“あるある“だが、オリジナルの意匠を無視して、施主や地元政府がイメージするデザインで「それっぽく」改悪されるのは珍しくない。