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 作家・司馬遼太郎が『坂の上の雲』で明治人のことを「ただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義(オプティミズム)からきているのであろう。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく」と表現したように、明治生まれの岸田家の男たちは日本という国を飛び出して、あかるく、楽天的に、台湾と満州でビジネスを成功させてきた。

岸田正記は戦後、岸信介のブレーンに

 安倍晋三元首相(67)の祖父でのちの首相・岸信介(1896~1987)は、正記と1歳違いと年が近く、満州体験(1936年はともに満州在住)という共通項もあり、深い友情を築く。

 商工省(現・経済産業省)のエリート官僚だった岸は、満州国の高級官僚として1936~39年に渡満。のち満州国国政の中枢・総務庁の次長に就任し、統制・計画経済の大胆な推進やアヘン政策で満州経営に辣腕を振るう。「満州問題は日本開闢以来の大問題で、勇断をもって、命がけで取り組まねばならぬ」と熱を込めて語っている。

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 正記は1946年まで衆議院議員に6期連続当選し、第一次近衛文麿内閣(1937~39)の海軍参与官(大臣政務官に相当)、戦時中は小磯国昭内閣(1944~45)の海軍政務次官などを務めた。戦後、公職追放となるが、追放解除後の1953年に衆議院議員に当選し政界に復帰。自由党の代議士を1期2年務めた。A級戦犯として収監された岸も、正記と同じ1953年の総選挙に自由党から出馬して当選する。岸はその後、1955年に自由民主党初代幹事長、1956年に外務大臣、1957~60年に首相を務めた。

『岸信介の回想』(岸信介・矢次一夫・伊藤隆著、文藝春秋刊)によると、正記は、自身と同様に公職追放が解除され、衆議院議員にカムバックした椎名悦三郎(1898~1979 満州国時代の岸の懐刀、のち内閣官房長官)、川島正次郎(1890~1970、のち自民党副総裁)、赤城宗徳(1904~1993、のち内閣官房長官)、福田赳夫(1905~95、のち首相)らとともに、自由党内でいわゆる“岸派”を形成し、岸信介のブレーンとして活躍した。

 だが正記は1955年、1958年の総選挙で続けて落選。岸内閣の閣僚に名を連ねることなく政界引退した。