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現在は1階がベーカリー、2階がレストラン

 幾太郎は1897年、弟の岸田多一郎(生没年不詳)と岸田光太郎(1872~没年不詳)を台湾に呼び寄せていた。1899年に幾太郎が帰国した後は、多一郎が呉服店、光太郎が材木店を受け継ぎ、兄弟はやがて、酒の卸業や貴金属販売なども手広く手掛けるなど、ともに業容を拡大させる。多一郎は「岸田呉服店」の西側増築部にカフェ「岸田喫茶部」も運営するようになった。

大正時代の彩色絵はがき。のれんに「キ」を染め抜いた店が岸田呉服店(基隆市政府観光及城市行銷処より)

 1922年の台湾の紳士録『南國之人士』(臺灣人物社刊)には多一郎、光太郎そろって、名士として掲載されている。岸田兄弟は1913年、台湾総督府から花蓮港庁(現・花蓮県)の官有地である原野の払い下げを受け、岸田材木店の花蓮港庁支店を設けた。材木の販売だけでなく良木の伐採から製材までワンストップで手掛けるようになり、岸田材木店は台湾有数の材木商に成長した。

 台湾の各メディアや、基隆市の林右昌(リン・ヨウチャン、50)市長などは盛んに、「現存する『岸田呉服店』の赤レンガ建築は、岸田文雄首相の曽祖父・岸田幾太郎が建てた!」と宣伝しているが、正しくは首相の大叔父・多一郎が建てたもの。「岸田喫茶部」も、幾太郎ではなく多一郎が始めた。幾太郎がいた時期の基隆は街づくりに伴う区画整理の影響で、岸田家の店舗や住居は何度も移転したという。

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官有地を岸田多一郎に払い下げた旨、を花蓮港庁長が台湾総督に報告した公文書(中華民国国史館台湾文献館より)

 2021年現在、基隆の「岸田呉服店」は1階がベーカリー「米塔(ミタ)」、2階が台湾式イタリアンレストラン「洋城(ユンチェン)」となっている。「岸田喫茶部」だったスペースは戦後、大陸から渡ってきた中国人による酒場「小上海小酒館」が1951年まで営業。1963年からは書店「自立書局」(※2019年に閉店し、現在基隆市が修復保存工事中)になった。

衆議院議員と満州ビジネスを兼業

 幾太郎の長男で文雄首相の祖父・岸田正記(まさき、1895~1961)は13歳で父と死別するが、刻苦勉励して京都帝国大学法学部を卒業。大学在学中には行政官の高等文官試験(高級官僚の採用試験)に合格したエリートだった。だが卒業後は官僚として奉職せず、不動産ビジネスを営む。

 正記は1928年、33歳で郷里の旧広島1区から衆議院議員に出馬し初当選、立憲政友会所属議員として政界入りする。そのまま政治家の道をひた走るかと思いきや、気持ちは亡父が最晩年を過ごした満州に傾き始める。衆議院議員になって2年後の1931年、日本軍は満州事変を引き起こし、翌1932年、日本の傀儡国家である「満州国」を建国した。新しい国づくりを進める満州国は、日本からの投資を求めていた。

 1933年、正記は衆議院に議席を置いたまま満州の大連に渡る。ただ、帝国議会は本会議が毎年3カ月間開かれるので、正記は臨時議会も含め、召集のたびに一時帰国していたのだろうか。現在の「衆議院規則」では7日間を超える議員の請暇は不許可となっている。

 日露戦争後のポーツマス条約で、日本はロシアから遼東半島先端部・関東州の租借権と東清鉄道南満州支線(のちの南満州鉄道)および沿線附属地を獲得。満州の植民地経営に乗り出していた。遼東半島の港湾都市、Дальний(ダーリニイ)は「大連」と改称され満州の海の玄関口として発展、1945年の終戦時には20万人超の日本人が居住していた。正記は大連と奉天(現・瀋陽)で不動産、百貨店ビジネスに乗り出し、1933年、大連で「幾久屋(きくや)百貨店」を創業する。