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常磐線&東武野田線“ナゾの交差駅”「柏」には何がある?

2021/10/18

genre : ライフ, , 歴史, 社会

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「柏」の本質は…

 昔を懐かしんでもそごうは元に戻らないので先に進もう。

 柏駅前の見所のひとつに、駅前から伸びる商店街があるそうだ。週末には歩行者天国になっていて、その脇にも中小の商店街がいくつも展開されている。この商店街の賑わいこそが柏の本質で、路地を含めてドン・キホーテからチェーン店、小さな個人店までさまざまなタイプの店が軒を連ねている。

 
 

 そのまま商店街を進んでいくと、水戸街道にぶち当たる。水戸街道は旧街道の名称で、いまはその役割を国道6号が受け継いでいる。国道6号は駅の西側、水戸街道は商店街の間を抜ける駅の東側。柏神社という小さな神社も水戸街道沿いにあって、古くからの柏の中心はこのあたりにあったのかと思わせる。

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 しかし、ここでも話はそう簡単ではない。柏が商業都市として発展したのは、それこそ戦後になってからなのだ。

“関東の宝塚”化計画もあった“軍都”…戦前の「柏」の姿

 江戸時代、水戸街道には松戸や我孫子という宿場町はあったが、柏はその間の小さな町(村といったほうがいいかもしれない)に過ぎなかった。現代の商業都市のルーツは宿場町であることは多いが、柏の場合はそれすら当てはまらない。

 近代に入り、1896年に当時の日本鉄道によって柏駅が開業する。これが発展の足がかりとなり、さらに1911年には千葉県営軽便鉄道野田線が乗り入れる。次いで1923年に北総鉄道船橋線が開業。のちに千葉県営軽便鉄道と北総鉄道は合体して東武野田線になっている。柏駅周辺をリゾート地として開発して“関東の宝塚”にしてやろうという計画もあったようだが、それは実現していない。

 ただし、戦前の段階では航空教育隊や航空工廠など軍関連の施設が集まる“軍都”としての側面が強かった。戦後になって軍施設や周囲の農地が住宅地に転用されていったが、本格的な商業都市化はまだまだであった。

 

大火で一気に進んだ都市化

 きっかけのひとつになったのは、1955年の末に起こった柏の大火。市街地にあった工場から出火し、水戸街道沿いを中心に広い範囲に火が回った。商店街はほとんど失われ、全焼43棟、半焼・半壊6棟、33世帯181名が焼け出されてしまったという。

 この大火をきっかけに都市化が進み、さらに昭和30年代には豊四季台団地や光ヶ丘団地といった巨大団地が相次いで柏周辺に進出した。急増した人口を背景に、大火から復興した柏駅周辺はいっきに巨大な商業都市へと成長していったのである。

 そうした中で、玄関口・柏駅のシンボルとして整備されたのが例のペデストリアンデッキと、そしていくつもの百貨店。百貨店の裏側には商店街がいくつも形成されていった。