とはいえ、僕はこういう映像スタイルを持つ作家だ、と自分を定義することはできません。それぞれの作品の演出に見合ったそれぞれのビジュアルがあるだけです。ワイドなサイズを撮れるアナモルフィックレンズを使ったのは、集団の顔をしっかり捉えるため。また主観的なビジュアルにするため、カメラの高さは兵士たちの目線の高さにあわせました。この映画は、常に変わりゆく少年少女たちの肉体を描き、青春というかりそめの時間を描いています。その儚さをとらえるのに必要なビジュアルをその都度用意したつもりです。
自然の絶景を見せる際も、ただ美しさを見せるのではなく、登場人物のキャラクターや心情を反映させること、彼らの視座がどうなっているかを常に意識しました。山の上に立っているとき、彼らは自分がいかにちっぽけな存在かを実感しています。一方ジャングルのなかでは、彼らの視界も五里霧中になり、自分がいったいどこにいて何をしているかわからないカオスな状況に陥ります。その状況に応じた映像を作り、さらに自然の中にある魔法のような情景を取り入れていきました。登場人物たちと同様に、観客のみなさんには白昼夢的な体験をしてもらいたかったのです。
最終的には誰もが一人なのです
――見ていて不思議だったのは、主人公といえる人物が徐々に変わっていくように思えたことです。見終えた今も、本当は誰が主人公だったのか判然としないままです。これは監督が意図されたことですか?
アレハンドロ・ランデス ええ、意図的に誰が主人公かわからないようにしています。まるでピンボールのように、一人の人物からまた別の人物へと次々に視点を変えているんです。視点があれこれ移り変わることで、被害者が加害者になったり、その関係性はより流動的になります。最終的には多くの兵士の中から一人の人物に視点が集約されますが、だからといってこの人物が映画の主人公だというわけではない。さまざまな人物の物語がその都度描かれたあと、たまたま最後の瞬間にこの人の物語が浮き上がってきただけです。
私たちには常にどこかに属していたいという欲求があり、そのために家族や国、民族といった様々な集団を作り出します。ここに出てくる子供たちもまるで家族のような集団を結成している。でも最終的には誰もが一人、孤独なのです。カメラが色んな人の視点の間を行き交いながら最終的に一人に寄っていくのはこの感覚を共有するため。その点、映画のタイトルはとても示唆的です。「MONOS」はスペイン語で「猿たち」を、ギリシャ語で「孤独」を意味する言葉ですから。