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越後のリアカーで鍛えた基礎体力と「春を待つ」ぶれない精神力

 ジャイアント馬場が誇った無限のスタミナと卓越した基礎体力を語るうえで欠かせないのは、生まれ育った故郷、新潟県三条市における生活環境についてである。

 青果商を営む父・一雄、母・ミツとの間に生まれた二男二女の末っ子だ。兄は太平洋戦争の激戦地、ガダルカナル島で戦死。父親が病弱だったために、馬場は小学5年生頃から母親を助け、家業を手伝う必要があった。

©文藝春秋

 そして体が急に大きくなったのは、このころからだ。

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 馬場は早朝に起こされると、母と姉が仕入れた青果を山積みにしたリアカーを引いた。十数キロも離れた見附や加茂には、自転車にリアカーを結びつけて運んだのである。

 冬になると雪が積もるから、リアカーがソリに替わる。さらに大幕張の出店作りを手伝ってからすっ飛んで家に帰って、すぐ学校に通ったというから凄い。

 三条実業高校(現在の三条商業高)を2年で中退し、読売巨人軍に投手として入団するまで約7年間、この“大人の仕事”を続けたと言うから、半端ではない。遊びたい盛りなのに、家業に励んだ忍耐力と頑張りには敬服するしかない。

「あのころは、勉強なんかできるわけないよ。家に帰ったら、カバンをブン投げ、バタンキューだよ」

 ふるさとを語る時の馬場さんの目は優しい。幅広の両肩を揺すって含羞の笑みなのだ。少年時代の苦労がリアルに伝わってくる表情である。

 育った生活環境がゆるぎない基礎体力を作り、強靭な脚力を生み、無類のスタミナをつけた。

 正平少年は、普通の中高生にないキャリアを積んだことによって、我慢を覚え、向上心というエネルギーに変えた。

 頑固さと我慢強さは、雪国・越後の風土にあるのだろう。これは気質にも通じる。「春を待つ」ぶれない精神力は、あらゆるピンチ、障害を乗り越える原動力になっていた。

多摩川グラウンドでの猛練習

 基礎体力をつける第二段階で欠かせぬのは、読売巨人軍における多摩川のグラウンドでの猛練習だ。

「馬場はグラウンドでよう走りよったよ」と若き日の馬場正平投手のことを私に語ってくれたのが“猛牛”の異名で活躍した二塁手・千葉茂。巨人軍の二軍監督も務めた。

 千葉さんはほかならぬ東スポ専属の野球評論家で、馬場と、のちに妻となる伊藤元子さんのキューピット役を果たした重要な人物だ。

 野球班は第一運動部、私の属する体技班は第二運動部と呼ばれた。千葉さんの座るデスクと私の席は背中合わせである。

「馬場の口癖は『腹減った、腹減った』だよ。多摩川のグラウンドでくる日もくる日もよう走っておったよ。汗まみれで、腹減るわけだよ(笑)。あのころの経験が馬場の財産だね」

 ユーモアたっぷり、ボソボソと話す千葉さんの語り口には説得力がある。多摩川のグラウンドで懸命に走っていたことがゼニの稼げる“黄金の足”を作りあげた。