5年間を過ごした読売巨人軍
馬場の読売巨人軍在籍は5年間。一軍公式戦登板は1957年の3試合のみ。計7イニング投げて防御率1.29、0勝1敗の記録が残っている。
主な球種はストレートとシュート。3年間にわたって二軍の最優秀投手賞を獲得している。57年には13勝2敗の成績をあげ、決してヘボ・ピッチャーではなかった。背番号「59」のユニフォームには、剛球投手のイメージが重なって愛着があったらしい。
馬場は59年のオフ、巨人軍から解雇の通告を受け退団。60年、大洋ホエールズの明石キャンプにテスト生として参加している時に、風呂場で転倒し、不運にも左ヒジの筋を切ってプロ野球生活を断念せざるをえなかった。
しかし、プロ野球選手としては、絶望と挫折を味わったが、巨人軍における5年間にわたる二軍生活は決して無駄ではなかった。
馬場さんが還暦を迎えた時、「Number」442号(98年4月23日号)の「ワン・ショット・インタビュー」に答えて、多摩川グラウンドがなくなることに触れている。
あの多摩川で走ってたということが、やっぱり、今日ある一番のもとだと思うし。
走るということを知ってるから、自分の体をなんとか動かせるように練習できる。これが走るということをやっていなかったら、例えば相撲取りで大きくなってレスラーになったとしたら、走る方法ということも知らないじゃないですか。ただ、がむしゃらに走ればいいというもんでもないから。(中略)あの多摩川のグラウンドっちゅうのは、今の自分がある何割かは占めてると思うね
亡くなる直前の馬場さんは、さまざまなメディアに対し「ここまでプロレスをやれたのは、走るということを知っていたからだ。もし、俺がその前に相撲取りだったら、ここまでやっていられない」と決めゼリフのように答えている。
大きな体を呪い『もっと小さかったらなあー』と思っていた
1998年1月23日、東京・後楽園ホールの「還暦記念試合」について、馬場さんは自著『王道十六文』(日本図書センター)でこう述べている。
オレがこの年まで現役を続けていられるのは、この大きな体のお陰だと思っています。高校に入学して足に合うスパイクが無く野球部に入部できなかった時や、巨人軍をクビになって、満員電車に乗って力道山道場に通った時は、大きな体を呪い、『もっと小さかったらなあー』と思ったものですが、プロレスラーとしてデビューしてからは、体の大きいことが物凄い有利だということがわかり、結局はこの体で稼いだんですから、今では感謝しています。巨体と新人時代にオヤジさん(力道山)とフレッド・アトキンスに厳しく鍛えられたのがオレの財産なんですね
【続きを読む】「会社が決めたことだ」ジャイアント馬場が迫られた“苦渋の選択”…最古参プロレスジャーナリストがみた“独立決意”の瞬間