来たのに落語をやらなかった「談志五夜」
また遅刻だけじゃなく、来たけど落語をやらないということもありましたよ。あれは95年に国立演芸場でやった『談志五夜』という、五日間連続で豪華なゲストを招いてやった会でした。
順不同で思い出すと毒蝮三太夫さん、桂文枝(当時は三枝)師匠、桂ざこば師匠、春風亭小朝師匠、笑福亭鶴瓶師匠、古舘伊知郎さん、デーブ・スペクターさん、とにかくすごかったです。
そして発端は三夜目の打ち上げでした。
この晩、打ち上げは美弥。そこへ当時まだ勘九郎だった中村勘三郎さんが顔を出して、師匠も嬉しかったのでしょう、一緒に呑んで呑んで、また勘三郎さんが明るくて楽しいお酒ですからね。そして勘三郎さんに言いました。
「明日は俺の代わりにお前がやれ」
すごい無茶ブリ。
「師匠! 勘弁して下さいよ! さすがにそれは無理ですよ!」
ハッキリと断った勘三郎さん。そしたら師匠はヒョイと正面にいたその晩のゲスト、高田文夫先生と目が合い、
「高田! 明日たけしを連れてこい」
高田先生の大きな目が一瞬にしてより大きくなり、飛び出さんばかりでした。
高田文夫先生も本職とは別の形で師匠の弟子で、立川藤志楼の高座名を頂いている真打の落語家です。
そしてたけしさん、ビートたけしさんも高田先生と同じ形での弟子で、当時は立川錦之助、師匠没後の今は談春兄さんの門下で立川梅春という意味深な高座名の落語家でもあります。
「よーし! 明日はどうなろうとかまわねぇ! 俺は勘九郎と呑む!」
そう言って、弟子の運転するワゴンで何と勘三郎さんのご自宅まで呑みに師匠は行きました。高田先生はたけしさんを呼ばなきゃならないから別行動。もう、そりゃ大変です。
それが深夜の1時頃だったのかな。
「落語が聴きたい」と言った勘三郎さん
「落語が聴きたいな。誰かやって」
ワゴンの中で、優しい声で我々前座の弟子に勘三郎さんはそう言ってくれました。しかし「はい、やります」と天下の中村屋の前でスラスラ出来る奴はいません。
「誰もしてくれないの」
少し寂しげな勘三郎さん。そしたら意を決した弟弟子、当時は志っ平、破門になって桂文治門下に移った柳家小蝠がしゃべり出しました。よかった。
しばらく聴いてるうちにお宅に到着。
「ありがとうね」
そう言って、我々にとご祝儀を小蝠に手渡してくれた勘三郎さん。
そっか、本当は落語が聴きたかったのではなく、我々に小遣いをくれようとした気遣いだったんだなと気付きました。
そして3時過ぎくらいかな、師匠から帰っていいって我々が解放されたのは。もちろん師匠は勘三郎さんと呑み続けてました。
その時で師匠は59歳だったのかな。酔った勢いで誰かの家に行くというのは、当時はまだ落語家のお約束でした。今もそうなのかな。
とにかく我々は全員思ってました。師匠は絶対に明日は無理だと。そして案の定です。