何気ない所作一つひとつに型がある茶道の「お点前」は、稽古を通じ、長い時間をかけなければ、真似をすることすら困難なものだ。映画『日日是好日』で茶道の先生役を務めた樹木希林氏は、どのようにしてそうした「お点前」を身につけたのだろうか。
ここではエッセイストとして活躍する森下典子氏の著書『青嵐の庭にすわる「日日是好日」物語』(文藝春秋)の一部を抜粋。森下氏をあっと驚かせた名女優の「神業」を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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初釜の濃茶点前
それは突然やってきた。
「初釜」の撮影を翌日に控えた夕方、樹木さんの控え室に呼ばれた。
「お濃茶、見せて頂戴」
「……は、はい!」
入り口でそれを聞いていた助監督の森井さんがパッと動いた。
控え室の左右の壁際にはパイプ製のハンガーラックにびっしりと衣装がぶら下がっている。その衣装の林をかき分けるようにして、畳の上に、及台子という大棚が運び込まれた。そして水指、杓立て、建水、仕覆に入った茶入れ。金銀の嶋台茶碗など……。
樹木さんは椅子に座って、森井さんと萬代さんが道具を運びこみ、てきぱきと置き合わせるのを眺めながら、
「あなたたち、ちゃんとお茶の稽古をしたから、さばきがいいわね~」
と、感心している。
道具がすべて運び込まれると、私は道具の位置を確認し、棚の正面に向かって居前を正した。静かに呼吸を整え、「では、始めます」と、言った。
「どうぞ」
その低く厳かな声は、さっき助監督たちに感心して話しかけていた人の声とは別人のように聞こえた。樹木さんはいつの間にか衣装の林を背に正座し、抜き身の刃のような眼差しを私の手元に向けていた。
その厳しい視線に緊張し、私は初っ端で手順を間違えた。
「あ、すみません。やり直します」
「………」
「張りつめた空気」という表現を、私はこれまで随分使ってきたけれど、本当に空気が張りつめると音が聞こえることを初めて知った。まるで窯から出したばかりの薄いガラスが鳴るように、ピキン! ピキン! と、音がした。
樹木さんは何も言わず、冷徹な眼差しで私の手の動きをじーっと見つめながら、メモを書きなぐる。
肌がヒリヒリするような沈黙の中で、私がお湯を注ぐ音や、茶筅を振る音と、樹木さんが猛然と鉛筆を走らせ、勢いよくメモのページをめくる音が、ぶつかり合って火花を散らしている気がした。
点前が終わった。
「もう一回、見せて頂戴」
樹木さんは低い声で言った。
「はい」
私はもう一度、最初から点前を始めた。書きなぐる鉛筆の音、紙をめくる音が、今度も続いた。二度目の点前が終わった。
「もう一回、見せて……」
私は三度、点前を繰り返した。その三度目が終わった時、樹木さんは、
「それじゃ、今度は私がやるから見ててね」
と、言って、私と入れ替わりに、棚の前に座った。