JRAでの勝利数歴代最多記録を更新し続け、いまも現役のジョッキーとして第一線で“中央”競馬界を牽引し続ける武豊氏。デビュー時から華々しい活躍を見せ、一時は向かうところ敵なしといった成績を残していた同氏に「待った」をかけたのは“地方”から現れた日本人騎手だった。

 ここでは、競馬ライターの小川隆行氏、競馬ニュース・コラムサイト「ウマフリ(代表・緒方きしん)」の共編著『競馬伝説の名勝負 2005-2009 ゼロ年代後半戦』(星海社新書)の一部を抜粋。永遠に続くとさえ思われていた「武豊時代」のターニングポイントを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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ナンバー1ジョッキーに告げられた有力馬からの降板

 1989年、デビュー3年目にして初めて全国リーディングを獲得して以降、長きにわたって中央競馬のトップを独走し続けてきた武豊騎手。数々の最多・最年少・史上初の記録を打ち立ててきたレジェンドの快進撃はとどまるところを知らず、03年から05年にかけては3年連続で年間200勝を達成。他の追随を許さぬ勢いで勝ち星を量産する姿を見る限り、「武豊時代」に終止符が打たれることなど当時の私には想像できなかった。

「武豊騎手」

 しかし、長く巨大な勢力を築き上げたあのローマ帝国も終わりを迎えたように、不動の王者にも時代の分岐点が訪れた。07年、ディープインパクトがターフを去り、新たな勢力争いが繰り広げられる中、武豊騎手が古馬中距離戦線でコンビを組んでいたのはアドマイヤムーン。前年春のクラシック戦線から手綱を取り続け、3歳時こそGⅠには手が届かなかったものの、明け4歳のドバイデューティフリーで待望のGⅠ初制覇。そのまま国内外のビッグタイトルを積み重ねていくように思われたのだが、続く香港クイーンエリザベス2世Cでの敗戦を受けコンビを解消。時を同じくして、3歳のクラシック戦線のお手馬アドマイヤオーラの鞍上も交代することとなった。圧倒的な存在感と実績を誇るナンバー1ジョッキーに告げられた有力馬からの降板。ましてやそれがアドマイヤベガやアドマイヤグルーヴらとともに数々の勝ち鞍を挙げてきた近藤利一氏の所有馬であったことは、ファンに大きな衝撃を与えた。