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芸術家との交流、広がる人脈

 恋もさることながら芸術家との交流も彼女の心を豊かにし、仕事はより深く幅広いものとなっていきます。シャネルはバレエ・リュスの主宰ディアギレフと親交を深め、バレエ・リュスの舞台衣装をデザインして評判を高めます。またディアギレフを介して作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーと知り合い、1920年の『春の祭典』公演を援助したりもします。

 シャネルの人脈はどんどん広がっていきます。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ミジア・セール、ポール・モラン、ジャン・ジロドゥー、エリック・サティらも彼女の家を訪れ、さらには映画スターやボクサーまでやって来ました。ポール・モラン言うところの「700人のパリの名士たち」のなかでも特に愉快な連中が、こぞって彼女の許(もと)を訪れたのです。

 彼女は第一次世界大戦後の開放的で自由な空気を大いに活用して、社会進出し、自己主張する女性たちを引き立てるボーイッシュなデザインを次々に発表して1920年代のファッション界を主導、多くのお針子(はりこ)を擁するアトリエ(仕立て工房)を経営しました。

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©iStock.com

 1923年、シャネルは英国の最上流社交界にも出入りするようになり、ウィンストン・チャーチルやウエストミンスター公爵、さらにはエドワード8世(当時は皇太子)とも交流するようになります。シャネルはウエストミンスター公との結婚を夢見たようで、こうした華やかな交流は30年代前半も続きます。しかし世界恐慌後の不況で経済は急激に縮小。人々の嗜向も趣味も保守化傾向を見せ、彼女の活動にもかげりが出ました。

 シャネルは映画女優の衣装などにも進出していましたが、大成功とはいえませんでした。そこでは女性らしさを強調する華やかなデザインが求められましたが、それはシャネルの持ち味ではありませんでした。またイタリアの貴族階級出身のデザイナー、エリザ・スキャパレリがシュルレアリスムを取り入れた大胆で斬新なデザインで評判になると、彼女の覇権は揺らぎます。

 1936年にフランスで起きた大規模ゼネストに刺激されて、シャネルのアトリエでもストライキが起こり、従業員との間に深い対立を抱えることになったのも、経済面だけでなく精神的にも大きな打撃でした。

占領下のパリでひとりのナチス将校と恋仲に

 1939年、ヒトラーのポーランド侵攻を受けて、英仏が相次いで対独宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発すると、シャネルはブティックは残したもののアトリエは閉鎖しお針子も全員解雇しました。戦争でファッションどころではない時代になったためだとシャネルは述べていますが、ストライキをした「裏切り者たち」への報復だったともいわれています。仕事を棚上げにした彼女はホテル・リッツで暮らし、ドイツ軍がパリに進駐してくると、ナチス・ドイツの外交官や上級将校と交流することになります。