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 ここでいかにもシャネルらしい出会いがあります。彼女は占領下のパリでひとりのナチス将校と恋仲になるのですが、相手のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵(外交官で諜報員)は、趣味のいい貴族で、とてもハンサムでした。2人は互いに利用し合う仲でもありましたが、そこに危険な恋の香はしても、占領軍への媚びた卑屈さは感じられません。どんな苦境にあっても、男でも立場でも最上のものを手に入れる──そんなシャネルの強(したた)かさと魅力には舌を巻く思いです。

 シャネルは第二次大戦後半になり連合軍が優勢になると、ディンクラーゲと共に連合軍との和平交渉を画策しました。この際、彼女はチャーチルやウエストミンスター公とのかつての“交流”を役立てようとします。しかし彼らは私的関係で国家利益を損なうような態度はみせず、シャネルらの計画は実を結びませんでした。

1954年に復帰、パリで再びコレクションを発表

 こうした活動のすべてが顕わになったわけではありませんが、連合軍がパリを解放してフランス国内で対独協力者に対する報復がはじまると、シャネルも一時は逮捕され、その後も訴訟に怯える身となり、数年間はスイスに逃れて、ディンクラーゲと共にすごしました。

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 ところでファッション界では、シャネルが消えているあいだにクリスチャン・ディオールが女性性を強調したエレガントなデザインで台頭します。シャネルはこれを自分の仕事を否定し、女性に対して男性の視線への従属を強いるものだと反発、1954年に復帰してパリで再びコレクションを発表しました。時にココ・シャネル70歳。

 しかしこのコレクションは失敗でした。「戦前の彼女のデザインと何ら変わらない」「戦前の亡霊」といった酷評が公然と口にされました。訴追は免れたものの、彼女のドイツ軍への協力を忘れていないものも多く、含むところあって冷淡な態度をとった人々も少なくなかったのです。

デザインこそが命であり、子供

 彼女はあきらめず、再びコレクションを開催。アメリカを中心にシャネル人気が再燃し、次第にフランスでも評価が戻ってきました。

 晩年の彼女は孤独を恐れ、子供を持たなかったことを嘆くこともありましたが、自身の仕事を、誰よりも輝かしい我が子と誇りもしました。1971年1月10日に亡くなった時も、直前まで春のコレクションの準備をしていました。デザインこそが彼女の生命であり、子供たちでした。

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