野村の話を聞いた高津は、「プロで生き残るためのチャンス」だと悟った。それまでの2年間は、「コントロールがいいが、これといった特徴のない投手」というのが、ヤクルト首脳陣の間で下した評価だった。だが、野村がイメージするようなシンカーをマスターさえすれば、この先プロで長くやっていくための活路を見出せる――。高津は野村との会話の中でそう感じ取った。
松井秀喜に「インコースのストレートで勝負」と言った意味
一方の野村は高津にこんな不満も抱いていた。
「ストレートが滅法速いわけではないのに、肝心の勝負どころでストレート勝負をしたがる」
高津が投じるカーブやシュート、スライダーなどの横に曲がる変化球は、右打者には有効だったものの、左打者を打ち取るのは苦労していた。そこであえて強気にストレート勝負を選択することが多かったのだが、現状のままでは左打者には通用しないという現実を、高津本人にわからせる必要があった。
「そのとき」がやってきたのは、93年5月2日の巨人戦。4対1でヤクルトがリードして9回裏、巨人の攻撃で二死一塁という場面。打席には鳴り物入りで入団したルーキーの松井秀喜がいた。前日に一軍デビューを果たした際、初安打初打点を記録。この日が2試合目だった。
このイニングの直前、野村はベンチで古田敦也を呼び寄せ、こんな話をしていた。
「インコースのストレートで勝負しろ」
これには2つの意味があった。1つは松井に関して、「インコースを苦も無くさばける」というヤクルト側で収集したデータが本物であったかどうかを確かめるため、もう1つは「高津のストレートでは左打者には通用しない」ということを本人にわからせるためだった。
己の力量の限界を知り、シンカーを完成させる
はたして高津は松井にすべてストレート勝負で挑んだ。2ボール1ストライクの4球目、高津が投じた133キロのストレートを松井が振り抜くと、打球はライトスタンドに弾丸ライナーで一直線に飛んでいった。試合はヤクルトが1点差で逃げ切り、高津は3回3分の2を投げ切ってプロ入り初セーブを記録したが、「自分より6歳下の、才能豊かな高校出のルーキーに打たれたことで、高津は己の力量の限界というものが理解できたはずだ」と、野村は生前語っていた。
野村がオーダーした100キロの遅いシンカーを、高津がマスターしたのは、この年の夏だった。相手打者が打ち気満々で挑んで来たら、遅いシンカーを投じてタイミングを狂わせ、シンカーを意識しているようだったらインコースにストレートをズバッと投じる。もともとの度胸の良さに加えて、女房役の古田が打者心理を巧みに読み取ったことで、「クローザー・高津」の存在は輝き始めた。この年、6勝4敗20セーブという数字を残して、ヤクルトのリーグ2連覇、15年ぶりの日本一に貢献する。