二死満塁フルカウントの状況を“投手有利”に変える方法
高津は野村から野球のあらゆることについて、とことん学んだ。たとえば、「二死満塁。カウント3ボール2ストライクのフルカウントになったとき、投手と打者のどちらが有利か?」という宿題が全選手に出されたときのこと。一般的には、塁上の走者が一斉にスタートできるうえ、「投手は思い切り腕を振ってストライクを投げてくる」ものだと思っているから、打者有利と見るかもしれない。
だが、野村は違った。
「ストライクからボールになる変化球を投げれば、打者は100%に近い確率で振ってくる」
野村は西武での現役晩年の79年、ルーキーの松沼博久とバッテリーを組んだときにこのことを経験して学んだ。打者有利と見られるカウントのときほど、ストライクからボールになる変化球を投げれば、相手打者は面白いように振ってくれる。
「たとえ打者有利だと思われるカウントでも、『どう考えれば投手有利のカウントになるのか』を考える習慣をつけておくことが大切なんだ」
野村は選手たちに説いた。
野村の野球の教え方は「まるで受験勉強のようだ」
高津は野村からこんな宿題を出されたこともあった。
「1点リードの最終回、一死一塁という場面。どうやったらショートの宮本慎也の前にツーバウンドのゴロを打たせて、ダブルプレーがとれるか考えてみなさい」
高津一人の考えでは答えの出せない課題だった。これには古田の知恵を必要とした。2人でカウント別に、ああでもない、こうでもないと議論して、勝負球をどこに投げるべきかを真剣に考えた。
野村の下で学んだ野球で起こり得るさまざまなシチュエーションについて考えを巡らせる作業を、高津本人は「勉強している最中は辛いが、結果が出ると楽しい。まるで受験勉強のようだ」と例えている。同時に日本、アメリカ、韓国、台湾の4ヵ国でプレーした高津にとって、戦略・戦術的な発想は「野村野球」が最も奥深かったと高津は話している。野村イズムはこうして今なお多くの教え子たちに受け継がれているのだ。
高津がヤクルトの一軍監督に就任したのは、19年秋のこと。この時点で野村は高津が一軍監督として成功するかどうかは「わからない」と言っていた。一方で、「二軍監督を経験していることが、いい影響を及ぼす」と語っていた。その理由について、「二軍で指揮することで選手起用について学ぶことができるし、自分のチームにどんな若手がいるのか、自分の目でしっかりチェックすることができる。たとえ現状の一軍選手で優勝していても、2年後、3年後のシーズンも同様に勝てる保証などないから、この点は非常に大きいんだ」