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「ノーベル賞の賞金は1年以内に受け取らないと失効する」トリビアが満載、“生命の不思議”を描く科学ノンフィクション

瀬名秀明が『人体大全』(ビル・ブライソン 著)を読む

2021/11/22
『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』(ビル・ブライソン 著/桐谷知未 訳)新潮社

 ビル・ブライソン! 米国随一のユーモアエッセイストで、テーマを決めたらそれについての“すべて”を書く。その彼の新作が『人体大全』というのだから喜びも倍増するが、邦訳独自の長い副題はやや語り過ぎかもしれない。原題は『人体:その保有者たちへの手引き』。本書各章の扉絵や箴言と同様、これだけ短い言葉でくすりと笑える。饒舌だが時間内にぴしりと終わらせる手練れのラジオパーソナリティに彼は似ている。

 ブライソンは科学や医学の専門家ではない。だが本書は人体についての総合百科で、つかみも上々、外側の皮膚や五感の話題を経て口から消化器へと潜り、ウイルス感染症やがんといった病気を押さえ、最後に生と死の話へ至る。各章はごく短く通勤や昼休みの30分が有意義になるが、一冊を通して見ると実はかなり長い。そして日本で出ている科学者や医学者の一般向け書物の大多数よりはるかに面白い。これが海外科学ノンフィクションの実力だ。近年は歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの成功をきっかけに、「まとめサイト」的な本が流行している。先達が苦労して得た知見の要点だけ抜き出して書き、読み手を何となくわかった気にさせてしまう。だからそれに馴れると却って本作のような書物には「結局何がいいたいのだ」と混乱するかもしれないが、本来読書の楽しみは「読む」という行為そのものにあるはずだ。

 こうした類いの本は他で見られないエピソードをどれだけ盛り込めるかが勝負どころで、おそらくどんな生命科学者も本書を捲れば数ページに一度は「へぇ」と感嘆するだろう。「誕生日ケーキのローソクを吹き消すとケーキを覆う細菌数が最大1400パーセント増える」「ノーベル賞の賞金は1年以内に受け取らないと失効する」――ええっ、そうだったの? と驚くが、これらはどうでもいいトリビアであり、知ったからといってビジネスが成功するわけでもない。だが私たちは日々こういう小さな「へぇ」ボタンを心で押すことで生きる力を得ているはずだ。著者ブライソンはとりわけ物事の発見者と言葉の起源に敬意を払う。本書にはたくさんの専門用語が登場するが、なぜその名がついたのかという説明自体が見事な歴史エンターテインメントとなっている。真の功労者への温かな眼差しも忘れない。抗菌薬ストレプトマイシンを発見した学生は、栄誉のすべてを教授に攫われノーベル賞も獲れなかったが、教授の死後20年経って学会が彼の功績を見直し、当の教授の名を冠した賞を贈ったというくだりには笑い泣きを禁じ得ない。人体には無数の「人間の逸話」が詰まっている。

 科学上の見極めも的確で、こうした良質の逸話をただ読む、それだけでも素晴らしい娯楽なのだと思い出させてくれる。著者は大半の生命科学者より科学本の楽しさをわかっている。

Bill Bryson/1951年、アイオワ州デモイン生まれ。イギリス在住。ノンフィクション・ライター。著書に『人類が知っていることすべての短い歴史』、『アメリカを変えた夏 1927年』など。
 

せなひであき/1968年、静岡県生まれ。作家。『BRAIN VALLEY』で第19回日本SF大賞受賞。近著に『ポロック生命体』などがある。

人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか

ビル・ブライソン ,桐谷知未

新潮社

2021年9月16日 発売

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