2019年、91歳で惜しまれつつこの世を去った国民的作家・田辺聖子さん。没後2年の今年、1945年から47年までの青春期を綴った日記が発見されました。

 記されていたのは、「大空襲」「敗戦」「父の死」「作家への夢」……。戦時下、終戦後のままならない日々を、作家志望の18歳はいかに書き過ごしたのでしょうか。日記をまとめた『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)より一部抜粋して、戦時中の日記を紹介します。(全2回の2回目/前編を読む

写真はイメージです ©️iStock.com

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学校で空襲警報を聞き、防空壕へ

6月2日 土曜日 曇ときどき雨、風加わる

 母とのいさかいや、死体の発掘などの平和的な事件の次に、こんなにも恐ろしい、終生忘れ得ない様な、傷手(いたで)を与えられた事柄が起ろうとは、誰が一体予知し得たであろうか?

 6月1日の日、学校へ行って第1時限の授業を受けていると警戒警報がなりひびいた。

 早速用意をして階下へ降りる。間もなく空襲警報が出た。

 何となく、ラジオの情報もただならぬ気色が感じられる。十数機とか数十機とかが、しばしばくりかえされた。また編隊が、という言葉も一再ならず出る。「敵は今日は主に近畿地区を狙っております」という中部軍の情報である。

 私は富田さんたちと防空壕へ待避した。小阪はしかし平安であった(※田辺の通う樟蔭女専は小阪にあった)。

 高射砲の轟きと爆音と爆弾の炸裂音をきいたが、何事もべつになく、手相やら、映画や結婚やら、小説の話が弾んでいた。

田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)

大阪駅の方角から、恐ろしいばかりの雲がムクムクと

 9時頃から防空壕に入って11時近くなると、大阪がやられた、という情報がきこえた。罹災地は天王寺、都島(みやこじま)の方だという(※この日大阪は、第二次大阪大空襲に見舞われた)。

 家はまず大丈夫と安心していた。壕から出て空を見上げると、恐ろしいばかりの雲がムクムクと起っている。その動きは異常に速いし、色もちがう。あれは煙だ、と誰かが言い出した。まさしく大阪(※駅)の方角である。

 教室へ帰ろうとするとラジオの情報でややその真相が判明しだした。それによると、天王寺は天満のまちがいであり、桜宮(さくらのみや)、築港(ちっこう)、中之島、都島、十三(じゅうそう)などが喧伝(けんでん)されていた。

 不安なままに教室で昼飯を摂っていると、細川先生がいらした。その前に私は小野さんに福島(※田辺家のあった地区)というのを聞いて胸がびくびくと震えていた。

 伊阪さんと、富田さん、黒田さん、大館さんらと帰る。小阪駅は満員だ。我々はすでに富田さんと伊阪さんとにはぐれてしまい、黒田さん、大館さん、私、と3人のみになった。

 関急(※関西急行。現在の近鉄)は鶴橋より向うは不通である。

 窓から、炎だとか煙だとかが遠望された。私は満員の電車の中で、それでも希望を失わないでいた。