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「お宅、焼けましたなあ」灰になってしまった家を前に、涙がぽとぽとと…作家・田辺聖子が記した、「空襲」と「家族」

『田辺聖子 十八歳の日の記録』より#2

2021/12/04

source : 文藝出版局

genre : エンタメ, 歴史, 読書, 社会

note

「お宅、焼けましたなあ」

 やっと出入橋までくると、なんのこと、橋を越した向うは至極安全で、どこに空襲がありましたか、といわんばかりだ。ああこれなら大丈夫かもしれないと、急に元気づいた。もはや行く手には煙も見えない。阪神に乗ろうとしたが来そうにもない。やはり止(や)めて歩きつづけた。

 菊一の前まで来た。浄正橋も美しい。少しも焼けておらぬ。ああこれでいよいよ安全だ、と思うと嬉しくなり、急に気が抜けて角の喫茶店の植木鉢でながいこと進まぬ足を休めていた。

 すると私は妙な現象を発見した。通る人々が私の休んでいる通りへ来て、熱心に何事かをみつめている。

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 私は思い切って歩き出した。そして通りを曲ったとたん、はっとした。

 白煙がいぶっている。やられた、と思い、出来るだけ急いで天神様の方へ出た。角の三枝はやられているらしいが、この通りは大丈夫らしい。私はどこをどう歩いたか、どんな気持ちがしたか、てんで、おぼえがない。けれども消防車の長いホースや、ただならぬ人声や、煙、それから、途中のやられている家々を見て、助かった、と思った予想が全然裏切られたと一瞬に感じた。

 今はもう、私は意識なく、家の方角へひょこひょこ、魂が歩くみたいに歩いていると、焼けなかった、無事な家の前で、そこの主人らしい男が無遠慮に、消防の活躍を見ながら、欠伸(あくび)しているのをみつけた。いやな人だと思って通り過ぎようとすると、後から、「あ、田辺さん、田辺さん」と呼ぶ。我に返ってふりむくと件(くだん)の欠伸男だ。

「えらいことでしたなあ、お宅、焼けましたなあ」

 私はこの言葉が強すぎて、すぐ受取れず、どすんと胸が鳴った。次の瞬間、来るべきものが来た、というあきらめのまじった思いが湧然とわく。私の額はすうっと冷たくなった。

「はあ、焼けましたか」

 という私の声は、我ながら憮然としていた。

「ええ焼けました。あの辺、すっかりきれいになあ、えらいことでしたなあ」

 と彼はくりかえした。

聖ちゃん、聖ちゃん、とよび止められ

 私はこのとき初めて標札を仰いで彼が父の知人であり妹の友人の父親である金広氏であることを覚(さと)った。

 雨が降っていたので彼は、

「まあ、ちょっとここへ腰かけなはれ。お父さん、よんで来まっさ。濡れるさかい、家で休んでなはれ。お父さん、呼んで来たげますわ」

 と請じたが、私はそれどころではなかった。

「ええ有難うございます。けれど、やはり、一度行ってみますわ」

「そうだっか。行っても何もあらしまへんけどな。ほんだら傘、かしたげまひょ」

 と彼は家人を呼んで、小(ちつ)ちゃな、油紙の傘を開いて貸してくれた。私は礼を述べてそこをはなれた。

 なるほど、裏通りは一面の煙だ。火はどうにか消えたらしいが、煙がもうもうと立ってくすぶっている。

 私は呆然として歩いてゆくと、ふいに、聖ちゃん、聖ちゃん、とよび止められた。思いもかけぬ、三宅さんのせまくるしい入口に、妙ちゃんや妹や、池田のおじさんの顔がのぞいている。

 お祖母さんは私の顔をみるや、泣声で、

「家、焼けたんやで」

 といった。私は胸がいっぱいになった。