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「学費がないから公立に行ってくれ」…地元のヤンキー中学へ

――ずいぶん厳しい環境ですね。勉強面についてはどうだったのでしょうか?

大薮 両親は特に厳しく言ってくることはありませんでした。田舎の小学校だったので、あまり中学受験をする子もいませんでしたし。ただ、一定の成績以上の児童には教師が受験を勧めていたんだと思います。僕自身も「受けてみれば?」と言われ、「そういう選択肢もあるのか」と私立の東海中学校を受験しました。無事に合格はできたんですが、そこで「やっぱり学費がないから公立に行ってくれ」と親に進学を断られてしまって。当時、工場の経営が傾きつつあり、私立に通わせる余裕がなくなっていたようです。仕方なく、いつも窓が割れているような地元のヤンキー中学に進みました。

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 そこでグレましたね。「受験までして合格したのに、俺の努力は何だったんだよ」って。同級生や他校の生徒とも頻繁に殴り合いの喧嘩をするようになり、中学1年生の時に3カ月の停学を食らいました。母親も学校に呼び出されて、珍しく泣いていたのを覚えています。さすがにそれからは反省して、中学2年生になってから卒業までは心機一転して、「どうせなら良い意味で浮いてやろう」と生徒会長をやりました。受験勉強も頑張って、県内の公立の進学校にも無事、合格できたんです。ところが、ちょうど中学校の卒業シーズンの頃だったでしょうか。ある日――両親が消えたんです。

高校進学直前、両親が突然消えた

――突然の失踪の前兆はあったのでしょうか。

大薮 お話ししたように、両親とも家に帰ってこないこと自体は珍しくなかったので、最初は正直、何とも思いませんでした。「またいつものことか」と。

 それが1週間、10日と経っても全然帰ってこない。そこでようやく「そういうことか…俺たち、捨てられたんだ」と。振り返ってみると、いなくなった日の朝、起きると冷蔵庫にカップ麺やらパンやらが、ぎっしり詰め込まれていたんですよね。それで「捨てるつもりだったんだな」と後で理解しました。

 冷蔵庫に詰め込まれた食料を食べきった頃、大家さんから家賃の取り立てが来ました。結局、よくわからないまま退去手続きの書類を書いたと記憶しています。その時の所持金は5000円強くらいだったと思います。

「退去費用は分割で払うので許して欲しい」とお願いし、売れるものは全部売って、アパートを出ました。スーツケースもなかったので、所持品は手で持てるモノだけ。ジャージ2着とTシャツ、ズボンぐらいだったと思います。悲しいというか…それ以前にどうやって生活していけるのかわからず、絶望的でしたね。付き合いのある親戚もいませんでしたから。

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 そこからは昼はショッピングセンターの椅子に座って時間をつぶしたり、本屋で「何とかお金を稼ぐ方法はないか」とビジネス書を立ち読みしたりしていました。夜はネットカフェで弟と2人で寝ていましたが、すぐに資金が尽きました。そこで、行くところもないので、進学する予定だった高校の近くにある公園に2人で住み始めたんです。