子供用のソリから開発した板でスノーボードという新しいスポーツを生み出し、自身のブランドBURTONと共にスノーボードを発展させてきたBURTONスノーボード創始者のジェイク・バートン。2019年に65歳で生涯を閉じるまで、スノーボードの普及、発展に大きく寄与した。

 その比類なるパイオニア精神、遺した偉大な功績、そして彼が真っ白な新雪の上に描いた夢の軌跡は、どんなものだったのか。没後2年となる今年11月、ライターの福原顕志氏が、1年に渡る密着取材からノンフィクション『スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生』を上梓。同書より一部抜粋して、ジェイクとスノーボードの出会いを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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一枚の板との出会い

 ジェイク・バートン・カーペンターは、ニューヨーク州ロングアイランドで生まれ育った。ロングアイランドは、文字通りマンハッタンの東に伸びる長い島。ニューヨークでは有数のサーフスポットだ。もちろん活発なジェイク少年はサーフィンがしたかったが、サラリーマンの中流家庭では、サーフボードは買ってもらえなかった。自分で買えるだけの小遣いもなく、仕方なくビーチに自転車で行って、ボディボードをしたり、ボディサーフィンをして過ごした。

 そんな少年時代のあるクリスマスの夜の出来事を鮮明に覚えている。

「確か14歳だったと思う。その頃もサーフィンはしたかったんだけど、まだサーフボードは持ってなかった。両親が『クリスマスプレゼントがあるから』と家の外に取りに行ったんで、内心『やった! ついにサーフボードがもらえる』と思ったら、両親がくれたのは勉強机だった。彼らは喜んでたけど、僕はガッカリだったよ」

ジェイク・バートン・カーペンター(1954-2019) ©BURTON

雪の上でサーフィンがやっと出来た瞬間

 しかし、このガッカリしたクリスマスが、ジェイクに新しいものとの出会いをもたらした。ちょうどその頃、巷(ちまた)ではあるおもちゃが流行り始めていた。「スナーファー」と名付けられた小型のソリのような一枚の板。バインディングもなければ、フィンもついていない、ただの黄色い板の先端にロープがついた簡単なデザイン。10ドルもしなかったため、自分の小遣いで買うことが出来た。

 ロングアイランドは、冬には雪が降り街は毎年雪に覆われた。ジェイクは雪が降ればこの板を持ち、友達と裏山に登っては滑り降り、登っては滑り降りをひたすら繰り返した。 

「板の上に横向きに立って転げないように雪の坂を滑るだけの単純な遊びだったけど、楽しくて仕方なかったよ。ずっとやりたくても出来なかったサーフィンが、雪の上でやっと出来た瞬間だったんだ」

 しかし、この一枚の板がいずれ自分の人生を変えることになるとは、その時はまだ分からなかった。