心を入れ替えて猛勉強し、コロラド大学に入学
しかし、この退学事件で目を覚ました。
「これ以上家族を悲しませることは出来ない」
父に頭を下げ、セカンドチャンスを与えてもらった。コネチカット州のマーベルウッドという進学校に入り直し、心を入れ替えて猛烈に勉強とスポーツに励んだ。結果、学年でトップの成績をおさめ、スキーチームに所属し、ついには卒業生総代をも務めた。頭の片隅には常に、スナーファーをスポーツにする夢があったが、まずは父親の期待に応えることを優先させた。
高校を卒業後コロラド大学ボルダー校に入学。大学のスキーチームに入ろうとトライアルを受けたが、その頃交通事故で鎖骨を折っていたこともあり、落とされてしまう。コロラド大学は、NCAA(全米大学体育協会)屈指の強豪校で、チームのほとんどはヨーロッパから来たエリートスキーヤーが占めていた。この時、ジェイクを落としたビル・マロットは、数十年後にFIS(国際スキー連盟)でオリンピックを巡り天敵となるが、振り返ればこのコロラド時代がスキーヤー人生の終わりとなった。
コロラド大学には3万人も学生がいたが、誰一人知り合いはいなかった。孤独感に苛さいなまれたジェイクは1年でニューヨークに戻った。その後、名門ニューヨーク大学の夜間コースに4年間通い、経済の学位を取って卒業した。そして、父親と同じ道を辿り、マンハッタンの投資銀行に就職したのだ。
自分で会社を興す決断
実は高校を卒業する前に、カーペンター一家をもう一つの悲劇が襲っていた。母キャサリンが白血病で亡くなったのだ。17歳だったジェイクは、父が必死に母を看病し、最後まで看取る姿を見た。そして、母親が亡くなったあと、あの厳しかった父が、最高のシングルファーザーに変わるのを見てきた。これまで苦労をかけてきた父親のためにも、父の望む仕事に就きたかった。
そうしてついにアメリカ経済の中心、マンハッタンでフルタイムで働き始めたが、お金を稼ぐためだけに毎日12時間働くような生活が次第に耐えられなくなってきた。勤め先の投資銀行は、大企業が中小企業を合併・買収するM&Aを主な業務にしていたので、仕事を通じて中小企業の社長たちと話をする機会が多くあった。彼らの話を聞くうちに、会社を興すこと自体はそんなに難しくない、と思えるようになった。また、学生時代に住宅の庭の芝を刈ったり植木を剪定する庭師のビジネスを行った経験がある。親から譲り受けた古いステーションワゴンの車と2本のクマ手、幾つかのゴミ箱だけの投資で始めたビジネスだったが、それが結構成功して儲かったのである。
それでジェイクはついに決断した。投資銀行を辞め、ずっと気になっていたアイデアを実現する。自分で会社を興し、スナーファーを改良して一つのスポーツに発展させるのだ。
「バートンボード」の発足である。23歳、1977年のことだった。