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最愛の母と兄を失い、高校は退学処分に…17歳の「生意気な劣等生」だったバートンは、いかにして“スノーボード”を生み出したのか

『スノーボードを生んだ男 ジェイク・バートンの一生』より#1

2021/11/27
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おもちゃをスポーツに

「スナーファー」は、一人のビジネスマンが趣味で作ったおもちゃが始まりだ。1965年、ミシガン州に住むシャーマン・ポペンが、クリスマスの日に、当時妊娠していた妻に、家で暇を持て余している元気な2人の娘を外で遊ばせて欲しいと懇願された。ポペンは、子供用のスキー板2枚を1つに貼り合わせ、立って滑れるソリを作った。ポペンの妻ナンシーがそれを、SNOW「スノー」とSURFER「サーファー」を掛け合わせ、SNURFER「スナーファー」と名付けた。

 これが娘の友達の間で非常に好評だったので、ポペンは特許を取り、ブランズウィックコーポレーションという会社にライセンスを与えて大量生産させた。ブランズウィックは、ボーリング場のレーンやビリヤード台などを作っている会社で、合板を曲げる製造を得意としていた。ビリヤード台の四隅のカーブは合板をスチーム加工して曲げるが、スナーファーはその余った板で作られた。スナーファーの先端の上に反って曲がった部分が、ちょうどビリヤード台の角にあたる部分だ。つまり廃材を利用してスナーファーを製造していたのである。

スキーのスリル、サーフィンのスキルと書かれた「スナーファー」のちらし

 これがその後10年間で100万枚を売る人気商品となるが、板には何の改良も加えられず、スナーファーは裏山を滑るおもちゃの域を超えなかった。

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「なぜこんな人気商品を使って誰も何もしようとしないのか?」

 ジェイクにはそれが不思議でならなかった。この雪の上のサーフィンが、単なる遊びではなく、いつか新しいスポーツになるという確信があった。高校生になった頃には、その可能性を周りにも話すようになった。しかし、それを自分で実現させるにはまだあまりに若く、また厳しい家庭環境がそれを阻んだ。

自宅でくつろぐジェイク ©BURTON

厳格な父と家族の不幸

 高校3年生が始まったばかりの秋、ジェイクは父の運転する車の助手席に黙って座っていた。自分が通っている高校の校長に呼び出されて、父と共に謝罪に行くところだ。ジェイクはマサチューセッツ州にあるブルックスというボーディングスクールに通っていた。ボーディングスクールとは、ロビン・ウィリアムズ主演の映画『いまを生きる』の舞台となった学校のような、規則の厳しい全寮制の私立高校のことで、アイビーリーグなど全米のトップ大学を目指す子供たちが通う進学校だ。

 ロングアイランドの実家から州をまたいで5時間のロングドライブ。窓の外には、紅葉した木々が流れていく。ニューイングランド地方の秋は全米でも有数の美しさだ。しかし、真っ赤に燃えるもみじの森を見ても、黄金のイチョウ並木の間を抜けても、ジェイクの心は晴れなかった。高校である問題を起こし、退学になるかもしれない瀬戸際だった。

 運転する父親の横顔をチラリと盗み見る。父親は唇をまっすぐ引き結びハンドルをギュッと握りしめたまま前を見つめていた。