いまから54年前のきょう、1963年の11月22日は金曜日だった。この日の午後12時30分(米中部時間)、時のアメリカ大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(46歳=年齢は当時、以下同)は南部遊説中、テキサス州ダラスで凶弾に倒れた。被弾後すぐに、ケネディはダラス市内のパークランド記念病院に担ぎ込まれたものの、ほとんど手の施しようがない状態で、午後1時頃、死亡が確認された。

46歳の若さだった ©getty

 ケネディが南部を訪れたのは、翌64年の大統領選を見据え、保守的とされたこの地域の有権者を押さえておこうという意図からであった。同政権は黒人の公民権運動を後押ししており、南部の白人層の離反が懸念されていた(松尾弌之『JFK――大統領の神話と実像』ちくま新書)。

 事件前日の21日、ケネディはジャクリーン夫人(34歳)とリンドン・ジョンソン副大統領夫妻をともなってテキサス入りし、各地で大歓迎を受けた。翌22日には飛行機でダラスに入ると、ケネディ一行は空港からオープンカーでパレードしながら、街の中心部を抜けて、トレード・マートという大きな商業施設に向かう。そこでの昼食会でケネディは演説する予定だった。事件はその昼食会場に到着するまで、あと5分というところで起こった。警備を考えれば、大統領専用車には防弾ガラスが取り付けられているべきであったが、国民との交流を演出したいケネディはそれを拒んでいた。パレードのルートがあらかじめ公表されていたことも、災いしたとされる(ビル・オライリー&マーティン・デュガード『ケネディ暗殺 50年目の真実 KILLING KENNEDY』江口泰子訳、講談社)。

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3発被弾した ©getty

 容疑者としてその日のうちに、元米海兵隊の一級射手のリー・ハーヴェイ・オズワルド(24歳)が逮捕される。オズワルドは当時、テキサス教科書倉庫ビルに勤めており、ケネディの車がその前を通りかかったところをライフル銃で狙撃したあと、逃亡中にさらに警官を一人殺害し、入った映画館で取り押さえられた。だが彼もその2日後、ダラス市警本部から拘置所へと連行されようとしていたとき、地元のクラブ経営者に射殺されてしまう。

 ケネディの被弾は3発。しかしのちに繰り返し行なわれた実験では、オズワルドと同じ秒数で正確に3発も撃てた者はいなかった。また、現場にいた大勢の目撃者は、教科書倉庫ビルとは反対側の小高い丘から銃声が響いたと証言した。これらは、事件後に米政府が暗殺事件を検証するため設けられ、犯行はオズワルド単独によるものとした「ウォーレン委員会」の報告内容とは食い違う。そのほか少なからぬ矛盾から、オズワルドには協力者、あるいは首謀者がいるとして、さまざまな陰謀説も現在にいたるまでささやかれてきた。先月、米国立公文書館はケネディ暗殺に関する機密文書の一部を公開したが、オズワルド単独犯説を覆す情報はいまのところ出てきていない。

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