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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

2021/12/18

 素直な性格も木村の成長の糧になった。竹下が付け加えた。

「私がちょっとリクエストしたり、助言したことを、あっという間に吸収していくんです。打つポイントもたくさん持っていて、手首の返しも速い。才能ってすごいと思いますね」

「出来ないことがあれば、出来るまでやる」

 しかし、当の本人だけが、自分の存在の大きさに気がつかないままだった。

 それも仕方がないことといえる。17歳で全日本入りしたことから、国際大会でどんな活躍をしようが常に最年少。チームではマスコット的な存在で、性格的にも人を引っ張るタイプではなかったからだ。それでも上達しようとする意思は人一倍強かった。

高校二年生のときに代表チームに初招集された木村沙織 ©文藝春秋

 出来ないことがあれば、出来るまでやる。誰に指示されるわけではないが、居残り練習を黙々とやっている姿を何度も見かけた。しかし木村は、努力を1度もしたことがないと屈託がない。

「努力って、やりたくないのに無理にやるとか、歯を食いしばって鍛錬する、というイメージがあるじゃないですか。でも私は、出来ないことがあったら、出来るようになるまで練習するのは当たり前だと思うし、苦手なプレイは得意になるまでやる。でも、これって当たり前のことだから、努力とは違うでしょ」

「木村には随分、厳しい言葉を吐きました」

 ほんわかした表情を一皮むけば、バリバリのアスリートとしての顔をのぞかせる。竹下が、「苦しいことにも耐えられる選手」と評した所以(ゆえん)だ。

メダルは木村沙織の成長にかかっていると考えたという眞鍋政義監督(写真はリオ五輪時) ©文藝春秋

 そんな木村の本性を眞鍋が見逃すはずがなかった。

 眞鍋は就任してすぐ、木村がさらに一皮も二皮もむけないと、ロンドン五輪でメダルは難しいと感じた。竹下、佐野、木村のプレイがそれぞれ世界一にならなければ、強豪国の仲間入りさえ難しいと悟ったのである。ベテランの竹下、佐野はチームの中心になる覚悟は持っていた。

 問題はチームの妹的存在に甘んじている木村だった。眞鍋が苦笑いしながら述懐する。

「だから、木村には随分、厳しい言葉を吐きました」

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