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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

「沙織がどんな状態であろうと、私はいつも助けたいと思っているから」スランプにもがく木村沙織が嗚咽した、ある選手の“一言”

日の丸女子バレー #5

2021/12/25

 2012年のロンドン五輪で銅メダルに輝いた女子バレーボール日本代表。その監督を務めた眞鍋政義氏(58)が、2016年以来、5年ぶりに日本代表監督に復帰することが決まった。10月22日、眞鍋氏はオンライン会見でこう述べた。

「東京オリンピックで10位という成績にかなりの危機感を抱いている。もし(2024年の)パリ大会に出場できなかったら、バレーボールがマイナーなスポーツになる“緊急事態”であるということで手を挙げさせていただいた」

 女子バレーは2021年の東京五輪で、“初の五輪女性監督”中田久美氏(56)が指揮を執ったが、結果は25年ぶりの予選ラウンド敗退。1勝4敗で全12チーム中、10位に終わった。

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 正式種目となった1964年の東京五輪で、記念すべき最初の金メダルに輝き、「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレー。だが、その道のりは平坦ではなかった。半世紀に及ぶ女子バレーの激闘の歴史を、歴代選手や監督の肉声をもとに描いたスポーツノンフィクション『日の丸女子バレー』(吉井妙子著・2013年刊)を順次公開する。(全44回の5回。肩書、年齢等は発売当時のまま)

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ワールドグランプリの試合後、公然と涙を流した木村沙織

 だが、世界選手権銅メダルを追い風に、ロンドン五輪に向けチームの実力アップを図ろうとしていた11年夏、人生初の大きなスランプに陥った。自分のバレーがまるで分からなくなってしまったのだ。木村の最大のストロングポイントでもあったバレー技術が迷子になる。

 8月に行われたワールドグランプリのセルビア戦後、ミックスゾーンに現れた木村は、メディアに対応しているうちに突然、大粒の涙をこぼし始めた。ことの深刻さがうかがえた。

ロンドン五輪での木村沙織 ©文藝春秋

 原因は、チームがさらに速いバレーを追求しはじめたことだった。はるか遠くにあったブラジル、アメリカという二強の尻尾が、世界選手権で視野に入ってきた。その距離を縮めるためには、サイド攻撃やバックアタックのスピードをより一層極めなければならない。しかしその途端、木村は竹下のトスにジャストミートできなくなってしまったのだ。木村が唇を嚙む。

「タイミングがずれるから相手のブロックも読めない。しまいには、レシーブしてからスパイクに入る助走のタイミングが、右足から入ればいいのか左足から入ればいいのかも分からなくなってしまったんです。もう頭の中は、しっちゃかめっちゃか状態でした」

「もう、監督にもチームメイトにも申し訳なくって……」

 不調は9月のアジア選手権でさらに深まった。木村は苦しくて仕方なかった。

「試合にも勝てないし、気持ちにも余裕がないし……。でも、眞鍋さんはじっと我慢して使ってくれている。コートに入りたい選手はいっぱいいるし、アピールのチャンスを待っている選手もいる。それなのに、私は毎試合出場し続けていたんです。テンさんは、私を立ち直らせるためのトスを上げてくれているし、もう、監督にもチームメイトにも申し訳なくって……」

 スランプにもがいている木村を見かねた眞鍋は、木村と竹下を部屋に呼んだ。眞鍋は、スピードを増した竹下のトスに、木村がタイミングを取れていないと考え、トスの速さを世界選手権時のスピードに戻そうと提案。だが木村は、「まだ挑戦してみたい」と申し入れた。チームの方針を自身の不甲斐なさで変更させてしまうのが、納得できなかったからだ。

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