「ひかりちゃんがそうしたいなら、うちに住んでもいいわよ」
「お父さんは許してくれるんですか」
母親は少し考えてから答えた。
「大丈夫、私の方でなんとかするから」
きっと家にひきこもっている梢を支えてほしいという思いでひかりを受け入れたのだろう。
こうして千葉の家での同居生活がはじまった。刑事の父親は、妻から説明を受けていたはずだが、プライベートのことには一切触れずに接してくれた。休みの日にアジを釣りに連れて行ってくれたり、家族旅行に招いてくれたりした。夜に食卓を囲んだ時には、「20歳だろ」と言ってビールを勧めてくれた。ひかりも恩に報いようと、アルバイトの給料の一部を生活費として渡した。
ひかりは言う。
「梢の家に来て初めて『家族』ってものを知ったんだ。下田や西成での体験から、ホームドラマのような温かい家庭なんてフィクションの中だけでの出来事だって思い込んでいた。SF映画みたいな非現実的なもので、絶対にありえないって。
でも、梢の家にはマジでそれがあった。親子がお互いを思いやって、笑顔で食事をしたり、旅行へ行ったりする。よその家の子供の心配までして、実の娘と同じように扱ってくれる。この安心感につつまれた関係こそが、家族なんだって考えられるようになった。
梢の家族から学んだのは、人を信じることや、思いやることの重要さだった。それまで、裏切られるのが当たり前だったから、人に何かを頼むとか、人を心配するってことがなかった。でも、梢の家族と知り合ったことで、逆に人を信じられれば楽になれるんだ、相手を思いやればより良い関係が築けるんだってわかった。そしてそれを自分でも実行できるようになったんだ」
この言葉から、ひかりがどれだけ過酷な世界で生きてきたかがわかるのではないか。ひかりにとって梢との出会いは人生を変えるターニングポイントとなったのだ。
将来に対する不安
この家での生活は、2年近くに及んだ。家庭環境にはまったく不満はなかったものの、ひかりは高校へ行かずに17歳になってもフリーターをしていたことから、だんだんと将来に対する不安が膨らんできた。
そんな時にネットを介して知り合ったのが、別の20歳の女性だった。彼女はひかりと同じく性同一性障害で、おなべとして生きながら介護職をしていた。
その人はひかりにこう言った。
「ヘルパー業界は人手不足だから、中卒でも、おなべでも雇ってもらえる。差別だってまったくない。よかったら、こっちの業界で働かないか。その気なら、紹介するよ」
ひかりは、自分と同じ性同一性障害の人間が活き活きと働いているのを知って、ヘルパーをやって自立したいと考えるようになった。