14歳のときに灯油ポンプ(醤油チュルチュル)を発明して以来、発明家の道を歩み続けてきたドクター・中松氏(93)。奇抜な発明とその独特なキャラがメディアで大ウケし、いろんな意味で日本を代表する発明家となったが、1991年に突如として都知事選に出馬して世間を驚かせた。ジャンピングシューズ(フライングシューズ)でピョンピョン飛びながら演説する姿を思い出すと、彼は本当は何がしたかったのかと、今でも巨大なハテナマークが頭の上に浮かぶ。
中松氏は、なぜ選挙に出続けたのか。そして、2014年まで24年間に参院選、衆院選を含め計16回出馬し、全敗したが、彼はそこから何を得たのか。今まで誰も聞こうとはしなかった、生い立ちから選挙に出続けた理由まで、中松氏に訊いた。
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――まずは先生の生い立ちから伺いたいのですが。
中松 僕は東京の千駄ヶ谷(渋谷区)の生まれで、江戸時代は直参旗本の家系なんです。直参旗本というのは幕府の中枢で、先祖は江戸城に勤めていたんですが、明治維新で追い出されて、千駄ヶ谷に逃げた。父は武士の家で育ちましたが、時代が変わったので明治新政府が設立した横浜正金銀行に勤めることになりました。真面目な銀行員だったんですね。
母は、当時の女子の教育機関では最高峰だった東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)を出ています。教師の養成機関ですから、卒業して金沢の女子校に赴任し、そこで体育の授業にスキーを導入したり、着物を制服に切り換えたりと、大胆に改革をしていたそう。母方の祖父は医者なんですが新しいことが好きで、自動車を分解したりバラの新種を作ったりと発明家のようなところがあって、私は母方の血を受け継いだと思います。
寒い台所に立つ母のための発明
――中松先生の発明への意欲はお母様ゆずりなのですね。
中松 そうですね。私が初めて発明をしたのは5歳のときです。小さい頃から飛行機が好きで模型飛行機を作っていたんですが、飛行機が安定して飛行できるようにする「自動重心安定装置」を発明しました。
初めて実用新案を取ったのは14歳のときで、今は灯油ポンプとして使われている仕組みを発明した「醤油チュルチュル」です。母が寒い冬の日に、かじかんだ手で冷たくて重い一升瓶から醤油差しに醤油を移しているのを見て、親孝行しなくちゃいけないと思ってサイフォンの原理を応用して作りました。灯油ポンプとして普及したのは戦後になってからですけどね。