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――終戦直前には、海軍兵学校に入られていますね。

中松 戦時中でしたから、私の進学の選択肢は3つでした。第一に海軍兵、機関、経理学校、第二に陸軍士官学校、第三に東大。この順番に試験があり、海軍を落ちた人が陸軍、陸軍を落ちた人が東大に行ったという印象です。当時の海軍兵機関学校は、日本のもっとも優秀な人たちが集まってくるまさに最高峰でした。兵学校は兵科将校を育て、機関学校は船舶や航空機を開発するエンジニアを育て、経理学校は主計将校を育てます。僕が入ったのは一番難関とされた機関学校です。

 入学後に再編されて海軍兵学校に機関学校が統一されたのですが、機関学校に入った、という気持ちでした。とにかく飛行機が作りたかったんです。その年は69799人が受験して、20倍近い倍率でしたね。

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内装が赤と金なのは、「写真を撮った時に顔色がよく見えるから」だという Ⓒ文藝春秋

――兵学校ではどんな生活だったのですか?

中松 試験は1944年9月、入学したのが1945年3月で、在学していたのは4カ月ほどですが、海軍の学校なので高度な勉学に加えて猛訓練の毎日でした。特に厳しかったのが、朝6時に起きて準備して、遠くの島を目指して夕方6時まで12時間かけて遠泳する訓練。同級生で、溺れて亡くなった生徒もいたと記憶しています。そんな生活をしていたら入学時に75cmだった胸囲が鍛錬で104cmになり、復員して海軍の制服で家に帰った時に、体つきが違いすぎて母が僕だとわからず「どなた様ですか?」と聞いてきたほど(笑)。

「僕はトップセールスマンでした」

 今考えても、最初に東大に行かずに海軍に行ったことは僕にとって良かったと思いますよ。肉体を徹底的に鍛えられて、絶対に負けないという精神を注入されたからね。93歳になりましたが、がんを克服して、今もピンピンしているのは、この頃に肉体を鍛えて負けじ魂を学んだおかげでしょう。

2010年に横綱・朝青龍が引退して断髪式を行った際には中松氏も儀式に参加 Ⓒ時事通信社

――その後、東大に進学され、卒業後は三井物産(当時は第一物産)に就職しています。なぜ三井物産だったのでしょう。

中松 東大時代から本格的に発明を始めて、フロッピーディスク関連など10件くらいの特許を取りました。機関学校に行ったのは飛行機を作りたかったからですが、GHQの占領政策で飛行機を作る会社は全部潰されてしまっていた。唯一飛行機を扱っていたのが、三井物産で、航空機課があったんです。

 航空機課では営業マンで、月2000万円の売上を立てる営業ノルマがありました。月給が6700円で2000万円売るのかと思いましたね。それで他の社員は接待やら揉み手やらで売ろうとしていたけど、そんなことでは全然売れない。だけど、僕はトップセールスマンでした。今でも三井物産に記録が残っていると思いますよ。