――どんな理由だったのですか?
中松 テクノロジー営業ですよ。ヘリコプターで農薬を散布する「空中農薬散布装置」を発明し、新しいマーケットを創り出したのです。農薬を散布するのに飛行機を使う方法はあったけど、飛行機だと葉っぱの上側にしか農薬がかからないので、害虫は葉っぱの裏側に逃げるんです。あいつらも意外に利口だから。だけどヘリで散布すると、ダウンウォッシュといって風を地面に叩きつけるから、地面でワンバウンドして葉っぱの裏側にも農薬がつくんですね。その空中農薬散布装置が当たって、ヘリが売れに売れた。1機売れれば2000万円のノルマなんて達成なんですが、僕は月に何機も売っていました。
また、黒部渓谷で黒四ダムの建設が始まったときには、渓谷を渡す電線を引く方法がないという問題が起きた。普通はクルマで引っ張っていくか、人が手作業でやるんだけど、谷があるからできなかった。それで僕がヘリで電線を渡す「空中架線装置」を発明した。
まずヘリコプターを使用する会社を作りました。ヘリでの作業を専門にする日本ヘリコプター輸送株式会社、通称“日ペリ”です。全日空(ANA)の便名は「NH」がついているでしょう。あれは「N」は「日本」で「H」は「ヘリコプター」を意味しているんです。
だけど、パイロットが架線作業を怖がるんですよ。ケーブルがローターに引っかかったらヘリが落ちるからね。そこで五重の安全装置を発明し、さらに陸軍の航空隊にいたパイロットを連れてきて、鎌倉の海岸でテストした。実験をしてちゃんと安全に線が張れることを実証して、実際に黒部で使われた。だから、僕は黒部ダムの建設ではすごい貢献しているんですよ。誰も褒めてくれないけど(笑)。
30歳前に独立、起業
――しかしその三井物産を辞めて、独立されています。
中松 29歳の頃に、松竹の高村潔さんという専務から「お願いしたいことがあります」と電話がかかってきてね。当時の映画界は松竹と東宝が二大巨頭だった。それで新橋演舞場の料亭に招待されて、「今は映画が隆盛だが、もうすぐテレビが出てくる。映画会社としてはテレビに対抗しなければいけない。新しい映画を発明してくれないか」と。
三井物産では自由にさせてもらっていたんですが、さらに自分の発明能力を100%出すためにも、独立するなら30歳前の今だと思って、三井物産を辞めた。それで、ナカマスコープという会社を作り、これが現在のドクター・中松総研です。松竹の高村専務は実験に全国どこの劇場を使ってもいいからと。それで発明したのが「ナカマスコープ」で、映画のサイズを4:3から16:9のワイド画面にしたんです。新しいレンズやコンピューターも全て発明しました。