――……なるほど! そしてその後、発明家として有名になり、テレビなどにも出られるようになりましたが、62歳ではじめて都知事選に出馬したのは何か理由があったのですか?
中松 もう亡くなられましたが、藤村義朗さんという元海軍中佐がおられたんです。戦時中は海軍武官としてドイツに派遣されていた。ドイツが降伏した後、藤村さんは「ドイツが負けたら日本も負ける」と確信して、終戦の年(1945年)の4月ごろに、スイスに移動してアメリカの諜報機関と接触して和平交渉に奔走した人です。いろいろ邪魔が入って失敗したんですけどね。
その藤村さんが、僕が表参道に住んでいた頃に2~3軒隣に住んでいて、海軍同士ということもあって親交があったんです。その頃僕は世界発明コンテストを主催していて、ニューヨークで開く世界大会に藤村さんをご招待したこともあります。
1990年頃に藤村さんががんにかかった時に、闘病中の枕元に僕を呼んで「君に総理大臣になってほしい。日本を立派な国に復活させてほしい」とおっしゃった。
――それが出馬の理由だったのですね。
中松 僕はそれまで政治家になろうなんて思っていなくて、「選挙に出ませんか」と誘われたこともあったけど、興味がなかったから全部断ってきたんですよ。だけど、藤村さんが総理大臣になり日本を救ってくれと遺言のように言うものですから、それに応えなければと思ったんですね。それで初めて1991年の都知事選に出た。62歳のときです。
選挙に勝つにはどうするか考えて、普通の人は選挙カーで走って大声を張り上げたりするわけだけども、僕の場合はやっぱりテクノロジー選挙ですよ。他の人が誰もやってない、使っていないテクノロジーで選挙に勝つと。
「聴衆の注目を全部集めた僕の勝ちですよ」
――先生の選挙運動というと、ジャンピングシューズのイメージが強いのですが。
中松 ジャンピングシューズと呼ばれていますが、あれは正式には「フライングシューズ」という発明です。元々は、ジョギングが流行った頃に発明したものです。アスファルトの道を走って膝とか腰とかを痛める人が続出したので、なんとかしようと思ってね。道路からの衝撃を吸収しながら、飛ぶように前進する、フライングシューズ。今流行ってる厚底シューズより僕の方が先ですよ(笑)。
面白かったのは、新宿駅前にどこかの党が巨大な選挙カーを出していてその上に応援演説の政治家がずらーっと並んでいるところへ行ったことがあるんですよ。聴衆が何百人も集まって、報道のテレビカメラも並んでいて、大々的に選挙演説をやっているところへ、「よし、ここで勝負しようじゃねえか」と思い、フライングシューズを履いてピョンピョン近づいていったんですよ。みんな驚いたのなんのって、選挙カーに向いていた報道カメラが、一斉にこっちを向いたね(笑)。演説している候補者も仰天していた。聴衆の注目を全部集めた僕の勝ちですよ。