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全斗煥時代の韓国は本当に“暗黒”だったのか? 事実を直視しない「韓国人の歴史観」には付き合いきれない

全斗煥時代の韓国は本当に“暗黒”だったのか? 事実を直視しない「韓国人の歴史観」には付き合いきれない

カラーテレビにプロスポーツ解禁、オリンピック招致…実はあの頃の韓国は明るかった

2021/12/17
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 学生、市民ら地域ぐるみの激しい抗議行動が展開され、制圧に軍が出動したことからデモ側も武装し武力衝突となった。これが約200人の犠牲者(軍・警察を含む)を出した「5・18光州事件」である。

 この時、筆者は東京にいたが、共同通信ソウル支局が光州事件の報道を理由に5月末で閉鎖されたため、支局再開に向け新軍部サイドと折衝にあたった。全斗煥氏が大統領に就任した1980年9月、臨時ビザを得て韓国に渡り、全政権の前半4年を現地でウオッチングした(支局再開は翌1981年4月)。

韓国の女性たちが化粧をするようになった理由

 全斗煥氏にとって「12・12」と「5・18」は政治的トラウマだった。民主的手続きによらない、政治的混乱収拾という名目の非常手段による政権誕生だったため「政権の正当性」に“弱み”となった。

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 そこで全政権は新政権の意義を国民に印象付け、実感させるため、「新時代」をスローガンに思い切った政策を断行した。それが旧政権下で長年続いてきた社会的な統制、規制の解除、廃止だった。その最大のものが1945年の米軍占領時代から続いてきた「夜間外出禁止令」の解除だった。

全斗煥大統領の在任期間は1980〜1988年 ©︎文藝春秋

 正式には「夜間通行禁止令」で通称「通禁(トングム)」といわれた。国防・治安上の理由だったが、午前零時から4時まで外出や交通は禁止され、屋外での活動は一切認められず、街はゴーストタウンとなった。つまり韓国国民には1日20時間しかなく、ひとびとは午前零時近くになると帰宅を急いだ。こんな毎日が40年近く続いていたのだが、それをなくしたのだ。

 これは人びとの日常生活を一変させ、「時間を気にしなくてもいい!」という自由と余裕が生まれた。

 また街頭のネオンサインが解禁になり、街灯も増えた。朴正煕時代はエネルギー節約のため夜はひどく暗かったのだが、全斗煥時代になり街も人も明るくなった。さらに中高校生たちの制服を廃止しヘアスタイルも自由化した。街から黒い詰襟服が消え、街は明るくなった。

 韓国を明るくしたもう一つの大きな要因はカラーテレビの放送開始だった。「通禁」解除は1982年1月だったが、カラーテレビの放送開始は政権スタート直後の1980年12月だった。それまでカラーテレビは“贅沢”とされ、国民は白黒テレビでガマンさせられていた。 カラーテレビは人びとの日常を明るくしたが、それ以上の波及効果があった。カラーの化粧品広告によって女性たちが化粧をするようになったのだ。韓国女性の化粧は、それまでは限られた人たちが限られた場面でするもので、一般の人にはあまり見られなかった。それがこの時からほとんどの女性が化粧するようになった。これで人びとの風情も一気に明るくなった。