清張の分身、亮子
前者は、瀬戸内海に面した福岡県行橋市と旧筑豊炭田の中心地、田川市を結ぶ田川線である(現3セクの平成筑豊鉄道)。豊津―崎山間は、今川沿いに緑したたる田畑が続き、勾金―後藤寺(現田川後藤寺)間は当時ならボタ山群が望見できたであろう。油須原付近だけは照葉樹林が折り重なる深い谷間にある。
後者は陸羽西線であり、古口―狩川間では最上川と並走する。両側に山が迫り、急流となる。芭蕉の「五月雨を」の句を最もイメージできる区間だ。余目は羽越線との接続駅である。吹雪の時は横殴りの雪が襲い、春夏は鳥海山や月山の万年雪を仰ぎ見ることができる。美田地帯である。
亮子は随筆を書いている午後1時36分という瞬間に列車が停車中の駅名を北から南まで次々に挙げる。関屋(越後線)、阿久根(鹿児島線)、飛騨宮田(高山線)、藤生(山陽線)、飯田(飯田線)、草野(常磐線)、東能代(奥羽線)、王寺(関西線)。そしてこう書き継ぐ。
私がこうして床の上に自分の細い指を見ている一瞬の間に、全国のさまざまな土地で、汽車がいっせいに停まっている。そこにはたいそうな人が、それぞれの人生を追って降りたり乗ったりしている。私は目を閉じて、その情景を想像する。(略)私は、今の瞬間に、展がっているさまざまな土地の、行きずりの人生をはてしなく空想することができる
亮子は清張の分身であろう。彼もまた時刻表と地図を机の側に置き、空想しては作品に芯を通し、リアリティを吹き込もうとしたのではないか。風景だけではなく、人々の暮らしの息遣いまで活写しようとしたことが清張作品の魅力になっている。
【前編を読む】読者を旅へといざなう“松本清張ならでは”の小説描写…乗り鉄が語り尽くした清張作品のスゴさとは