戦国時代、「天下人」と言えば織田信長、豊臣秀吉が浮かぶ。だが、彼らに先んじて京と畿内に覇を唱えた者がいた!『三好一族――戦国最初の「天下人」』を上梓した天野忠幸さんは力説する。
「応仁の乱から、織田信長の上洛までの約一世紀、畿内の情勢はほとんど知られていません。当時の首都圏であるにも関わらず、です。関西人として許せません(笑)。理由は簡単で、多数の人物が昨日は味方、今日は敵と入り乱れるため分かりづらい。しかし、実はこの百年間、三好一族は中央政局に関わり続けました。天皇や将軍をはじめ、農民、商工業者、宗教勢力、さらには倭寇(わこう)や明、スペイン、ポルトガルなどとも関わりがあったのはこの一族だけ。彼らを補助線とすれば戦国の日本が見えてくるんです」
そもそも争いの元凶は、室町幕府十代将軍足利義稙(あしかがよしたね)と十一代将軍義澄(よしずみ)という従兄弟同士の将軍職をめぐる対立だった。双方に管領(かんれい)細川氏や畠山氏などの一族が分裂して与したことで抗争は長期化した。そのなかで、阿波(あわ)守護の細川家に仕えていた三好一族は躍進を遂げる。なかでも傑出していたのが三好長慶(ながよし)だ。
「長慶は自身を暗殺しようとした十三代将軍義輝(よしてる)と和睦し、幕府再建を進めます。しかし義輝は何度も約束を破り、長慶を除こうとする。ついに長慶は、京から将軍を追放し、禁裏の修繕、明との外交、天皇の望む改元を、次々と実行していきます。首都に平和をもたらした長慶は、天皇や貴族から信頼を寄せられるようになり、足利将軍家がなくても世の中は治まることを示した。長慶は、足利将軍の権威に拠(よ)らない政権を初めて樹立し、天下人となったのです」
だが、ここで疑問が浮かぶ。無用な幕府を倒し、自ら将軍になればいいのでは。
「それは結果を知っている現代人の発想です。200年も続き、信頼と実績のある足利将軍家は、絶対的権威として、戦国大名からも認められていた。将軍個人を挿(す)げ替えても、幕府そのものを倒そうと考えるのは異常なこと。かの信長ですら、義輝の弟義昭(よしあき)や義昭の子義尋(ぎじん)を推戴していたほど。信長にも保守的な面がある」
長慶の時代、三好家の版図は近畿と四国の11カ国に及んだ。
「飯盛(いいもり)城(現・大阪府大東市と四條畷市にまたがる山城)が本拠地ですが、城下町はありません。大阪平野に散在する寺内町や国際貿易港・堺(さかい)を掌握し、経済的利益を得る、多極分散型の領国経営を行いました。また、年貢減免や借金棒引きなどを約束し、農民や日雇労働者を軍事動員していた。首都圏の労働力構成を熟知していたのです」
長慶の跡を継いだ甥の義継(よしつぐ)は義輝を殺害したことなどで袋叩きに遭い、信長に滅ぼされた。これにて三好家終焉……というのがこれまでの研究だったが、三好一族はしぶとく復活する。
「本書に詳しく書きましたが、キーマンとなったのは長慶の遠い親戚である康長(やすなが)。彼は、仇敵であるはずの信長の子や秀吉の甥を養子に迎えます。冗談かと思いますが(笑)、そのおかげで、江戸時代、三好一族の末裔は、旗本や広島藩の藩士として存続できたのです」
こうして見てくると、信長も秀吉も、三好抜きに語れないのではと思えてくる。天野さんはこう提言する。「戦国時代」に続くのは「三好・織田・羽柴時代」だと。
「これは筆が滑りましたが(笑)、長慶と三好一族が、足利将軍の権威を相対化し、統一政権への道筋をつけたことは間違いない。新たな時代を拓いた一族を知ってもらえたら嬉しいです」
あまのただゆき/1976年、兵庫県生まれ。天理大学文学部准教授。専門は日本中世史。著書に『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』『松永久秀と下剋上』『荒木村重』『三好一族と織田信長』『三好長慶』『増補版 戦国期三好政権の研究』等。