『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』(師茂樹 著)岩波新書

「テーマ自体、一般的にはそんなに知られていないと思っていたので、予想以上の反響に驚いています」

 今から1200年前。“仏教史上最大の対決”の大論争が、2人の僧侶の間で5年間にわたって行われた。その2人とは比叡山に延暦寺を開き天台宗の開祖となった最澄と、現在の福島県会津地方を中心に活動していた法相宗の徳一だ。師茂樹さんが上梓した『最澄と徳一』は発売後1週間で増刷がかかり、以降も版を重ね、現在1万5000部を突破している。

「一カ所でブームが起こっている、というわけではなく、地方の小さな書店から少しずつ注文が入り、増刷に繋がっているようです。自分で書いておいてなんですが、どういう方が手に取ってくださっているのか見えていないんです(笑)」

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 後に「三一権実諍論」と呼ばれたこの論争は、「三乗説と一乗説のどちらが方便の教えで、どちらが真実の教えなのか」を争ったものだ。そもそも「乗」とは仏の悟りに導く乗り物のことで、一乗説とは「生きとし生けるものはブッダになれるのだから、修行しよう」という考え。一方、三乗説では「修行者の素質によって修行のゴールは異なる」としている。

 現在の日本では一乗説が主流だが、当時は三乗説を唱えた法相宗の方がメジャーであり、新興だった最澄の天台宗は勢力としては脆弱だったという。

「仏教界という狭い範囲での論争に見えますが、国の在り方をめぐる議論ともリンクした重大なテーマでもありました。最澄が徳一に送った『守護国界章』という批判書を本書で解説しましたが、最澄は国境を守り、人々を救うためにも徳一の論を批判し、地獄に落ちてもらおう、と言っているのです。国境を守ることと仏教の教えの関連というのはピンとこないかも知れませんが、それを一笑に付すのではなく、できる限り彼らの真剣さを掬い取りたいと思っています」

 当時の論争をひも解くためには、彼らが置かれた社会的状況、仏教界の潮流を加味することが欠かせない。

「一乗vs.三乗、最澄vs.徳一、といった単純な二項対立の図式を脱して、周囲にいた人々のネットワークを復元しようと試みました。これまで語られてきたイメージから自由であるためにも、また古代の人々の言葉のニュアンスや、失われた文献を復元するためにも、コンピューターを利用して解析や分析を行っています。“文献の中の指紋を探す”と言うのですが、印象に残るフレーズや一見特徴的に見える主張だけではなく、とるに足らないように見える、ただの模様の中にその人を特徴づける鍵があるかもしれない、と思いながら日々研究しています」

師茂樹さん

 論争の内容はもちろん、彼らが用いていた議論の方法にも焦点を当てて解説しているところが面白い。

「2人の論争は、“因明(いんみょう)(仏教論理学)”という議論における作法を共有していました。最澄と徳一が自分の信じていることを一方的に唱えるのではなく、お互い別の信仰を持っていながら、同じフィールドで議論が出来たのはこの論理学が非常に有用なものだったからです。因明は西洋で言う三段論法のような思考法ですが、実は日本では現在、研究者がほとんどいないんです。明治以降、西洋の学問が輸入された際に忘れられてしまい、私の前には30年以上研究の空白の時代がありました。ただ欧米圏では現在、現代哲学との共同研究なども行われています」

 現代に通ずる“議論の作法”を学ぶこともできる一冊だ。

もろしげき/1972年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。現在は花園大学文学部教授。著書に『論理と歴史――東アジア仏教論理学の形成と展開』『『大乗五蘊論』を読む』など。